●学園長のひとり言
平成18年3月14日
 (毎週1回)

化学を学ぼう

春の今頃の季節になると「勉強に興味がまったくなくなった」と言い、半引きこもり状態になる学生が、今年も同じような状態になっている。

そんな彼のことが心配で「彼にとって一番重要ななことは何だろうか」「何が彼にとって必要なことなのだろうか」等など、彼のことを考えながらテレビをぼんやり見ていた私の耳に、誰が発した言葉かわからない言葉が飛び込んできた。

「進化して変化することが化学。だから化学を学ぼう!」

「そう、その言葉!」と、思わずテレビの画面に焦点を合わせてみたが、頭の中には今聞いた言葉がCDを聞いているように繰り返し流れ、「そうなのよね、本当にそうなのよ!」と思わず声に出した自分の声を聞きながら、また考えこんでしまった。

彼が悪いわけでもない。親が悪いわけでもない。それだけに悩んでいる当人にとっては逃げ場がなく必要以上に苦しいのかもしれないが、今を踏ん張って出来ることから手をつけ、“大変”と思う時間を上手に越していく訓練をして欲しい。さもないと、同じような問題に出くわすたびに同じ状態になり、前進していくことが困難になるだろうから。

苦しさを免れるために一時的に問題を解決し、楽になったように見えても、真の問題から目をそむけ、根本的な問題解決の努力もせず逃げ出すことを選択すると、ほんの少しの間だけ楽が出来、自分も周りの人間もほっとするが、実際は近い将来もっと重く自分を痛めつける結果になるだけだろう。

例え一時的にプライドを「傷つけられた」と思えても、勇気を持って事実を事実として受け入れ、「だからどうしようか?」と考え、試行錯誤しながら問題を解決して未来の道へ漕ぎ出すほうが賢明だ。そのためならいっぱい遠回りをしたらいい。「もったいない」と思えるほど時間をかけたらいい。正々堂々と皆に助けてもらいながら、一生懸命自分の出来るテンポでコツコツ努力してみたらいい。

努力をする者たちに対し、人は絶対見捨てない。協力を惜しまない。最後まで一緒に付き合って歩いてくれる。それを信じて欲しい。

長い人生、時にはゆっくりじっくり考えることは必要だ。しかし問題が起こる度に「ゆっくり、じっくり考えてみる」と休息をとり、その休息時間が生活の中心になり、コーヒーを飲みながら「どうしよう?」と、気持ばかり焦らせるような人生ではなく、自分のテンポをキープしながら、いつか休息時間を増やしてやっと一人前と、老いを受け入れなければならなくなるまで、体を動かしながらじっくり考えて欲しい。努力することを放棄しないで、欲しい。まだまだ十分、人に甘えて生きられる時間があるうちに。

教師として反省させられる、学生が悩めば悩むほど、前進したいのに前進することを恐れ、後退しようとあがくたびに。自分たちの無力さと、小さいうちにこの問題を解決してこなかった教育の“つけ”を思い、眠れなくなる。どうやって学生たちに謝ろうかと。どうやってその償いをしていこうかと。

いつの頃からか、「自分の好きなことを見つけなさい。やりたいことを見つけなさい。やりたいことを見つけたら生きる力が湧いてくるから」と連呼してきた。それも、言葉の説明も裏付けも、見つけ方も教えず、よくても悪くても子供たちの「人生の師」であり、「人生のお手本」であるはずの大人や親や先生と呼ばれる人たちの口から。それもまるで選挙のときの「守られることが少ない公約」のように、無責任と思える調子で。

確かに間違った意見ではない。しかし、選択する能力も選択肢も持たない彼らにもっと具体的な説明と、行動を起こさせるための導きをする必要があるのではないだろうか。

好きなこと。興味のあること。やりたいことの裏側には、それを支えるためにどんな種類の好きじゃないこと、興味のおこらないこと、やりたくないことが存在しているかを伝え、それらをクリアーする中で、好きなことがみつかったり、興味が湧いてきたり、やりたくなったりすること等を、具体的に教え、体得させていく必要があると思うのだが。

何もしないで「好きなこと」、「やりたいこと」が見つけられたら、そんないいことはない。しかし、それをどうやって見つけていくかの方法を誰も示さず、誰も教えもせず「見つけなさい!」と言葉だけで鼓舞することは、ある意味残酷であり、また残念だが見つけることは「不可能だ」としか言いようが無い。

説明・方法抜きであることなど意に介さず、一見物分りがよく、子供たちの味方をしているように勘違いしたくなる言葉、「好きなことを見つけなさい、やりたいことをやりなさい」を、悪気もなく連呼し続ける大人たち。おまけに「それを見つけるためならば」という大義名分で、好きなだけ自由な時間を与えた結果、好きなこと、やりたいことは、何の努力もせず、じっと待っていれば向こうから勝手にやってくると勘違いしている子供たち。

自分の未来のために絶対欠かすことのできない苦手なこと、やりたくないこと、興味のないこと等が、例えほんの少しであっても「ちょっと面白そうだからやってみようかな」と考えたことの後ろに見え隠れするだけで、「これは俺が待っているものじゃない」とやり過ごし、何もせずただただ寝て待つことを選択するか、「みつからない」と悩んでいる“つもり”を演じて時が過ぎていくのをじっと待っていることを選択し、「不登校」や「引きこもり」の原因をつくっている。

私たち大人は、子供が小さいうちから楽しいことは苦しいことを我慢してやっているうちに楽しいことに変化することや、面白いことは、面白いと思える知識を持たなければ面白いものには化けないことを、しっかり体験させ体得させていかなければいけないと、考えている。それをする方法としては、年齢や各子供たちのもっている性格や環境などにより、色々な方法を選択する必要があると思われるが、その代表的なものの一つが「褒めて育てる教育」ということではないだろうか。

この方法は、年齢や環境に関係なく行える方法であるように思われているが、年齢に合わせた方法で実行しなければ「薬も毒になる」という危険性があると考えている。

人間はパンダやライオン等と同じ動物であることを、忘れてはいけない。
動物の親の最大の仕事は、弱肉強食の世界で子供たちが一人で餌を捕り、たくましく生きていけるように育てることだ。そのために、幼いうちから厳しい訓練をしながら、一人前の動物として一日でも早くに独り立ち出来、次の子孫につなげていけるようにと、親離れ子離れを視野に入れて教育していることを、人間たちも学ぶべきだ。

朝起きたら何故「おはよう!」と言わなければならないのか。遊んだおもちゃを何故片付けなければいけないのか。その理由を理解する力のない幼いうちは、動物的本能で一番大切と思う親や兄弟の喜ぶ顔を見て、思わず心で感じた喜びを表しながら、人を喜ばせて自分が喜べることを学ぶと同時に、そのときに発せられる「褒め言葉」で、こういうことを言われるときは、自分の行動を喜んでくれているということを知り、親の行動を真似し、親の喜ぶことをくりかえしているうちに、それがいつの間にか習慣として身についていくのだろう。

勉強をする意味が分からないまま、コツコツ真面目に勉強させられることは面白くないことだろう。そのとき、「すごいね、よく出来たね」と褒められることで、褒められる快感と、親の嬉しそうな顔をみて、「こんなことでも、親や大切な人たちが喜んでくれるのだ」ということを知り、それを励みにコツコツ努力することを体得していくのだろう。

社会に出ていく時間が近くなればなるほど、親や兄弟から褒められるのではなく、むしろ親や兄弟から距離を置き、「一般社会から褒められたい」と努力を始める。そんな彼らのために、親や教師や彼らを取り巻く大人たちは、社会がどう彼らを評価しているかを一社会人として彼らと付き合う中で気づかせると同時に、彼らがどう彼ら自身の努力に対し自己評価し、社会の評価と自己評価の差をどのように折り合わせ、納得しながら上手に生きていくかを学ばせる。その結果、彼らは色々な評価の中で生きていかなければならない社会人としての生きる準備が始められ、一人の人間として、どんな挫折にも負けず、何とか生きて行ける力が備わってくるのではないだろうか。

単に「褒めて育てる教育」から、応援団として親も教師も大人たちも「こんなことまでさせて可哀想」などと同情する心と決別し、少しずつ子供と距離をおきながら「褒めて育てる教育」の応用版。色々な体験をさせ、色々な挫折をいっぱいさせる中で、自分で考える力や自分で選択する力などが育つようにする。そのために、何が起こっても応援団の地位を崩さず、応援団としての本領を発揮し、大声で「いつも見ているから『安心してずっこけなさい!』」とエールを送り続ける。余計な手出しはせず、あくまでも子供自身が努力し、自分で方向転換できるようにサポートしていく。

やりたいこと、興味のあることをするためには、地味にコツコツと、やりたくないこと、面白くないこと、興味のないことを選択しなければならないように追い込むことも、時には応援団の仕事。

継続する力、反復する力、積み重ねていく力。そして、恥をかく力。他人も自分も人間であることを認める力。自分のレベルを知る力。挫折から這い上がる力など、自分の心と闘う力は、嫌なことを継続することの中で育まれ、それにより興味の対象がもっと広がり、面白いと思えるものがたくさん目に入るようになり、それがやりたいことに発展していく要因でもあるからだ。それこそが、正に化学変化であり、化学反応であり、教育とは、こんなことなのではないだろうか。

教育現場である上田学園で学生たちに学んで欲しいことは、自由を選択したら必ず義務を果たさなければいけないこと。どんな嫌なことも、どんなに興味のないことも、ちょっと見方を変えてみたり、疑問を持ってみたり、追求してみたりすることで、それが不思議な化学変化を起こし、楽しいもの、面白いものに大化けすることを。

そんな学びが出来るようになるために何に対しても、出来ないことを恥じるのではなく、出来ないから学ぶという「勉強することの意味」「学ぶことの意味」をしっかり理解し、自分を必要以上に卑しめず、必要以上におごらず、好きなこと、嫌いなこと、やりたいこと、やりたくないこと。あらゆることをやりながら在学中に徹底的に恥じをかき、自分の優れているところも含め、本当の自分を認め慈しみ、どんな問題からも逃げず、自分のテンポでチャレンジすることでどんな化学反応が起こり、変化し、進化し、「俺、少しだけど昨日の俺より変わったな」と自分の中で確認できるようになり、自分のことがもっと愛しくなり、未来が信じれることの「手ごたえ」という醍醐味を味わって、それから卒業していって欲しいと考えている。

在籍3年半と3年のヒロポンと藤チャ。
現実の自分と向き合い、自分の心と闘い、薄紙をはがすように自分の問題を一つ一つ解決しながら、従来の暗記授業ではない上田学園の授業に戸惑い、「何がなんだかよく理解できない」「手も足も出ない」「どうやって取り組んでいいかわからない」と悲鳴をあげながらも放棄することもなくコツコツと努力を続け、知識も年齢も経験も学力もまったく違う仲間たちの中で切磋琢磨し、いつの間にか自分を大切にする心を育み、いつの間にか彼らなりの化学変化を起こし、進歩し、自分の道を見つけ、未来に向かって歩き出そうとしている。

そんな彼らに影響され、最近新しく入学してきた学生たちも「何かよく分からないけれど、理解できるように頑張ってみます」と、出来ないことを恥じることも焦ることもせず、自分の出来る範囲で努力して授業に取組んでいるが、その一つの授業、外国人に日本語を教える今学期最後の授業があった。

ブッツケ本番のような状態で卒業するヒロポンからの指導を頼りに、一生懸命日本語をアメリカ人の生徒であるビジネスマンのビクトルさんに教えていた上田学園の紅一点の門馬ちゃん。彼女の緊張している様子に、ビクトルさんはニコニコしながら「先生は毎回緊張していますが、先生と僕はいい化学変化を起こしながら、いい日本語クラスをしています。本当に楽しいです」と、4月のクラスも門馬先生からの授業を受けたいと申し出て帰って行った。

「僕と大先生は気があってベストコンビ。今までで一番いいクラス。素晴らし授業。4月も大先生と勉強できるなら、日本語を続けたい」と、英語教師をしているというコルベットさんからも、嬉しい申し出があった。今学期最後の授業だというのに、担任の大先生は寝坊で授業をすっぽかしたのに。

学生たちが投げかけてくれる色々な問題。大きな宿題をもらったような気持がする。

もらった宿題や課題は、春学期までに出せる答えは出す努力をするつもりだ。歴代の卒業生や卒業していく学生たちの手で「よく学ぶ上田学園」に変化したが、新入生を迎え、在校生と新入生とで、先生たちのお力を拝借して切磋琢磨しながら未来につながる「自分たち仕様の上田学園」を作ることができるように、しっかりサポートしていく糧にするために。

今週卒業パーティーがある。
思い出のある卒業パーティーにするため、荻チャが中心になって企画し、準備をしている。それが終わったら春学期に向けて本格的な準備を開始する。それまでは、卒業していく二人をじっくり送りだしてあげられるよう、出来るだけ他のことには時間を割きたくないと考えている。どんな教師でも感じる何だかとても淋しいような、嬉しいような、説明出来ない複雑な気持ちの中で。

 

 

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