●学園長のひとり言
平成18年4月9日
 (毎週1回)

ビンテージお婆さん!

「今日から粗大ゴミではなくビンテージお婆さんと呼んでいただきましょう!」

ニュースを聞きながら朝食をとっている隣で、時々笑いながら朝刊を読よんでいた94歳の母が突然宣言した。

いつものように、「素人が考えても分かるような偽メールにだまされて、大切な案件がたくさんあるというのに、本当に日本の政治家は駄目ね」とか、「2代目の水戸様(ドラマ水戸黄門)は3代目の方より、水戸様のイメージに合うわね」とか、「フランスで大学生のデモが拡大しているけれど、就職難は世界中なのね」等と独り言を言いながら、右手に持った赤鉛筆で新聞のあちらこちらに印をつけ、「面白い記事に印をつけておいたから、時間のあるときに目を通しておいて」とか、「小泉さんの後に誰を首相にしていいか…、今の政治家にはしっかりしたピジョン(?)もないし、人相もよくない人たばかり(?)で、本当に困ったものね」などなど、毎日のように聞かされる母のコメント。「フンフン」と適当に右から左へ聞き流していた私は「ビンテージお婆さん!それ何?」と、思わず母が読んでいた新聞を横から覗き込んだそこに、粗大ゴミさんという投票者から、今日から自分をビンテージと改名したことを述べている記事が載っていたのだ。

「何でもものは考えようね」と関心しながら、粗大ゴミよりビンテージの方がずっと聞きやすいし、受け入れやすいし、受け入れやすければ、厳しい現実を楽しく受け入れることが出来ると母は言い、そして「言葉は言霊と昔の人はよく言っていたけれど、本当に言葉って不思議ね」とつぶやく。

母は新聞から目を離さず話続ける、年をとると色々な不都合があると。おまけにその不都合をもっと不都合に聞こえる言葉で表現されてしまうことも多いと。例えば一生懸命家族のために働いていた人が、定年退職と同時に「我が家の粗大ゴミ」と呼ばれてしまうような。

だからと言って変に気を使いすぎて、当の本人たちが全く何とも思ってもいないことでも、学識者と信じている人たちや弱者を助けているつもりの人たちによって“放送禁止用語”のリストに入れ「その表現は適切でない」とかで、その状況を的確に表現する言葉が使えなくなるのは、考えものだとも言う。そしてどんな呼び方も、年をとるという事実には勝ないという事実。だからこそ発想を変えて年をとっていくことを「楽しみたい!」と。

そんな母の相変わらずな前向き姿勢に、子供としても同居人としても改めてホットさせられるのと同時に、細くて小さいどこにでもいるお婆さんだが、凛として生きる母の生き方に敬意を表したくなる。そして私も含め上田学園の学生たちがもっと前向きな姿勢で生きられるようになったら、どんなに楽に生きられるだろうかと、新聞を読む母の横顔を見ながら思わず考えこんでしまった。

色々な背景と理由で入学してきた上田学生の学生たち。そんな彼らの共通点は得てして後ろ向きに生きることを選択しようとするところだろう。楽(らく)なこと、即ち世の中に流されることを選択するが、ふんばって前向きに楽しむことは選択したがらない。

この世に生を受けたすべての人たちが平等に受けられる権利は、命を終えるまで生きていられるということだろう。そして同じようにこの地上に生まれた者が、自分の理想とする所を目指して生を終えていけるということだ。

しかし、誰にでも平等に受けられる、それも拒否の出来ない「生を終えるまで生きられる」、それも「自分の思うように」という権利を行使するためには、努力という義務を遂行しなければならない。

この世の中は甘くない。納得のいく人生を終えるために理想とする所は、目指すところは、すべて今自分が立っているところをスタート地点とし、それより上に位置しているようだ。その証拠に夢も希望も上を見ながら語られる。

この世に生を受けた人間が権利として「死ぬまで生きていられると」いうことは、どんな人生を送っていても、どこで送っていても、自分の人生は死ぬまで継続中であり、同時に今いる自分の位置から上に行くか下に行くかの選択は、自分の自由意思で決定出来るということだ。これぞ正に人間として生まれて「よかった!」と感謝しなければいけないことだろう。

確かに納得した人生、夢に絵がいた人生、希望通りの人生を手に入れようとするならば、まるで上流から下流にながれていく川の流れに逆らいながら上っていくようなことではあるが、上り方には色々な選択肢があり、それがまた嬉しい現実なのだ。

しかし、色々な上り方の中で共通していることは、努力をしなければ「上れない」ということであり、それが嫌なら流れに身を任せて下流に流されていけばいいだけのことであり、本人が「そうしたい」と選んだ人生であるならば、それはそれでいいのだろう。

努力をするということは、人生を良く終えていくために必要不可欠な挑戦事項だと考えている。だからこそ、努力をして前進していくということは、まるで社会という川の流れの中で、川上から川下に次から次へと押し寄せてくる色々な問題を一つ一つ解決しながら、川上を目指して進んで行くことを指しているのだろう。

何もしなければ川上から川下に流されるだけの人間が、川上にある頂上を目指し、社会という川の流れの中で一生懸命流れに逆らいながら頂上に到達するための努力をすることによって、「達成感」や、「満足感」を体感し、その実感出来たことが、前進するために必要な「苦労」をあまり苦労と思わず楽にできるようになり、楽にできるようになればなるほど、いつの間にか楽しくなり、その楽しさを応援歌に、また前進していこうという力が湧いてくるのだろうと思う。

“楽”(らく)も“楽しむ”も同じ漢字で表されることからも分かるように、同じ線上にあるのだろうが、前進しようと努力する人間にしか“楽”が“楽しさ”に成長することはないのだろう。

上田学園に入学を希望する学生たちは楽を選択しているつもりで、上流から下流に流れていく棒切れのような人生を選択しようとしていたように思う。でもどこかで何かが彼らに警告していたのか、大きな不安に押しつぶされそうになりながらも何とか、どうにか、その場で踏ん張り、何とか夢を持って、希望を持って上に向かって上っていきたいと希望し、でも「続けられるかな?」と、内心の大きな不安を言葉にしながらも、それでも一大決心をして入学を決めて入って来ている。

3月に無事送り出した卒業生が、上田学園に在学中に身につけた知識や知恵という道具を使って自分たちの希望に向かって着々と努力を開始しているように、新しい学生たちにも、その努力をするために必要な色々な道具に触れ、その道具の使い方を学び、一人の人間として、一人の社会人としてこの社会で生きていける知識や知恵を身に着けてもらいたいと願っている。

4月10日。明日から春学期だ。猛烈な勢いでダッシュしていた昨年と違い、おっちゃんや大チャンや荻チャ達を中心に、おっとりタイプに見える新入生の女子学生が2人と男子学生3人が加わって、計8名で平成18年度版の上田学園がスターとする。

彼らと先生たちの手で創られる18年度版上田学園。どんな学園になろうとも、都合が悪くなったり、恥をかきそうになったりするたびに、「お腹が痛い」とか「体調が悪い」とか「嫌なことがあったから」等と後ろに後退することなく、少々のことでは、「100歳に近いんですもの、どこかが悪いのは当たり前よ。そんなことを言っていたら生きていけないわね」と言いながら、前向きに生きているビンテージおばあさんのように、元気に前進していって欲しいと願っている。

少々お付き合いすることは大変なビンテージおばあさん。でも学ばされることは大きい。上田学園の学生たちも同じだ。少々お付き合いすることが大変なときもある。でも色々学ばされることも多い。両方に感謝している。そしてその両方のことを考えると、両方を取り巻いて色々お世話してくださる方々、兄弟も含め、先生やご両親たちにも感謝したくなる「今学期も前向きに頑張ります!」と。

今日はこのホームページをあげたら私のテーマソングを歌いながら帰るつもりだ「♪頑張らなくちゃ〜あ、頑張らなくちゃ〜♪」と、明日の新学期を楽しみに桜吹雪の中を大声で歌いながら。

 

 

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