●学園長のひとり言

平成18年6月1日
 (不定期更新)

                   明るくやりましょう!                     

例年のように、新学期が始まってすぐに張り出された当番リスト。そこに書かれた内容を見て思わず大声で笑ってしまった。

あれから2ヶ月、自分たちの決めた当番リストにそって毎日掃除をして帰る学生たち。そしてすでに掃除をするのを忘れて帰った門馬ちゃんがグループの一人ひとりに、お金を払ったという。「問答無用!」と書いた当の本人が。

掃除当番は今でこそ誰でもがやっていくようになったが、上田学園が開校されたときは園長自ら一生懸命掃除をしていた。が、そんな園長を横目で見ていても知らんふりの学生たち。イスに寄りかかり、足を机の上に乗っけ、一心不乱に漫画を読んでいた。

何でも感じさせたい。考えさせたい。自らの気付きで何に対しても行動できる人間になって欲しいと考えていた私は、何事にたいしても「おばさんの私がやっているのを、若い彼らが黙って見てはいられないだろう」と勝手に解釈して「気付くまで」と、黙々と掃除をしていた。

しかし、認識が甘かった。
本人は勿論だが親も周りの大人たちも、学校のクラブ活動も掃除当番も塾に行くことを理由にさぼったり、さぼらせたり。学校の勉強さえしていれば「良い子」と評価される環境にいた学生たち。家事はすべて母親がやるのが「当たり前」などと思う以前に、家事は誰がやってくれているかなど考えたこともないのではと思えるほど、自分以外には全く興味がなく、自分に関係ないことは気づきもしなければ、関心も持たない学生たち。掃除の邪魔にならないように、読んでいた漫画本から目も離さず体を移動させてくれる学生は、まだ良い方だった。

掃除は人がやるもの。自分の使ったコップをそこら辺にほっぽり出して帰っても、全く何とも思わない。「ありがとう」「おはようございます」「頂きます」「ご馳走様」「さようなら」などの挨拶でさえも、注意するまで言わない。おまけに自分だけ何かを買って来て食べている。人に分けてあげるなどということは、思いつきもしない。勿論自分にお茶を入れるついでに人のも入れてあげる等ということは、気づかなくて当たり前。

家族の一員として当然子供がやるべき家庭でのお役目。「家のお手伝い」は、家電使用で短縮されて出来た母親の時間が当てられ、子供の生活の全てを成績に直結させようと、子供のテリトリー即ち、勉強の仕方、先生との付き合い方、友達との交流など、子供が大人になるためのステップとして学ばなければいけない他者との関係を、母親業を返上してマネージャーになった母親という名前の担当者に、占領された。それも当の本人である子供たちの気付かぬうちに。

母親という名前の優秀なマネージャーが付いたために、不幸なことに、子供たちは一般社会人として成長するチャンスを失ってしまった。

親だけが悪いわけではないだろう。子供だけが悪いわけでもないだろう。「受験が全て」という風潮が日本中に充満し、家のことよりも「成績」という風潮に汚染(?)されてしまった結果のことだからだ。だが気付いた者として、学生たちを社会人として自分の足で歩いていけるような教育をすることは勿論だが、それを支える社会人としてのマナーも身につけさせるのが、上田学園の役目だと考えた。

学校の勉強も大切だ。しかし、勉強は学校に行かなくてもやろうと思えば何歳になっても、どこにいても出来る。しかし、人間社会で生活するための最低限のマナー。他者に対する「思いやり」、「約束を守る」、「協力する」、「助け合う」などということは、それらを実践し、その結果を体験して初めて反省したり考えたりするようになり、それが人間として生きる知恵を育て、マナーとして身に付き、応用できるようになるのだろう。それも小さいうちから体験することで。

気付いた今がチャンス。小学生や中学生ならば強制的にやらせることも、できる。また強制的にやらされることも、学びだ。しかし上田学園の学生たちは、それなりの年齢になっている。だからこそ、学生たちが知らなかったことや気付かずやらなかったことを普通に気付かせ、「そうだよね、やるべきだよね」と当たり前に考えて実行するようになるのが一番自然と考え、そんな機会が来るのを狙った。

あれから6年。上田学園がビルの一室から庭付きの一軒家に移り、1年に数回の草取りや、大掃除も入れて、皆で協力して掃除をすることが当たり前になった。

「夫婦は平等ではないが、同等。だから奥さんだけに家事を押し付けるのはおかしい」という彼らの意見を尊重。「じゃ、今から実践しなければね。その日が来たからといって、急になんでも家事がこなせるようになるわけじゃないから」という提案を受けた学生たちによって。

それでも、まじめに一生懸命義務を黙々と果たす学生を横目で見ながら、大掃除の日は必ず病気になる学生。大掃除の後の食事会にだけ間に合うように来る学生。掃除の時間になるといつの間にか消える学生。気が付けばいつも掃除を一人でやらされている学生など、色々な学生がいた。

しかし、しっかり者の女性人たちの入学により、この4月からは「やらなきゃいけないことは、やらなきゃいけないの!」と、門馬ちゃんの厳しいご意見により、「罰金」というおまけ付きの掃除当番が始まった。

たかが「掃除」、されど「掃除」。
「俺、今日急ぐから、悪いけどトイレだけやって行くから、後頼むよ!」とか、「この間たくさんやってくれたから、今日は俺がやるよ。宿題の調べ物も終わったから!」とか、相手の立場や状況を汲み取り、自分たちで上手に調整をしながら、しなければいけないことを当たり前のこととして淡々とやる学生たち。それを通して毎日微妙にほのぼのとした仲間意識が生まれている。

無意識のうちに体験している、他者の状況や気持ちを理解し、協力し合うことで生まれる心地よさが、彼らを人間として行動させている。そんな彼らを見ていると、今世間を騒がせている若者たちの起こす社会問題。自分勝手な思い込みや、自分勝手な解釈で人を簡単に殺めたり傷つけたりするようなことは、決して起きないだろうと思え、「また新しいことが普通に出来るようになったね」という言葉を飲み込んで「お掃除、ありがとうね!」と言わずにはいられない気持ちになる。

「問答無用」と書かれた掃除当番リストを見ながら、つくづく思う。
今の子供たちは、自分の考えや感じたことを口に出すのが苦手だ。自分の気持ちが正確に伝わらないことに、悩んでいる。悩んでいてくれるうちはまだ軽症だ。悩まず何でも世間や他人のせいにするようになり、手段を選ばず自分の思い通りにしようとするようになったら、重症だ。

だからこそ軽症のうちに悩みながらも色々な方法を使うことで、自分を理解してもらえるということを体験させ、自分勝手な思い込みで自分を追い込むことや、自分を否定して自分を殺すようなことが起きないよう、毎日の何気ない小さなことを通して、地道に実践させ、少しずつ理解させていくことが大切だと。

上田学園の中でも外でも、学びはたくさんある。それも何気ない事柄の中に。だからこそ、どんなに小さなことでも無駄にせず、大切な学びとしてじっくり学んで欲しいと願っている。

門馬さんが、元気に皆のお尻を叩く。それを受けて、荻チャがモチョモチョ言いながら、行動に移す。それを3年間の“チャランポラン休暇”から戻り、無遅刻、無欠席、宿題にもきちんと取り組み、質問もたくさんし、二ヶ月間先生たちを驚かせ続けている大ちゃんが、笑って見ている。そんな大ちゃんを、大ちゃんによって髪の毛も染めて今風の若者にイメージチェンジさせられている頭のてっぺんから足のつま先までドップリ「サラリーマン」だった平野君が、ニコニコ見ている。そんな彼を大ちゃんと一緒に「平野君イメージチェンジプロジェクト」の一員の梶さんが、時々声を出して笑いんがら楽しそうに眺めている。そんな皆から一寸距離を置いて、ハチマキ君が眺め、そして思わず吹き出したりしている。そんな彼らの周りをうろうろしながらドクターが「何が起こったの?」という顔をしながら、「ああ、そうか!」と納得してうなずいている。

たかが「掃除」、されど「掃除」。
難しい授業。楽しい授業。時間のかかる授業など、バラエティーにとんだ先生たちから学ぶバラエティーにとんだ上田学園の授業。上田学園の毎日は、ハラハラどきどき。でも毎日確実に前進する彼らに、どんなに大変でも、どんなに嫌なことがあっても「今のように歩きながら悩んで、明るくやろうね」とエールを送りたくなる。そして、そんなエールを送れる立場においてもらえることに、何時ものように感謝したくなる「ありがとう!」と。


 

 

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