●学園長のひとり言
平成18年6月17日
 (不定期更新)

       出来ない自分自身と仲良く一緒に、勉強しよう!

「勉強って、どうしてしなければいけないんですか?」

こんな質問が学生からきた。
自分があまりにも勉強ができないから悩んでいるのだという。落ち込むのだという。

この手の質問を受けるたびに思い出すのは、上田学園の講師でもあり、ロンドンで30年以上、大学や専門学校からの委託によるAO入試で、日本人留学生の世話をしているロンドンユニバーシティーコンサルタンツ(ユニコン)の佐藤先生の言葉だ。

先生は言う。「イギリスをはじめとするヨーロッパの大学などが考える勉強って、出来ないから勉強するので、出来る人は別にする必要はないし、大学でする学問は、結論が出ていないからするのであって、結論の出ていることは、別にする必要はなく、その結論を読めばいいだけだと考えられている」と。

先生の言葉を裏づけするように、英国では11年間の義務教育(5〜11歳の初等教育、11〜16歳の中等教育)が終わる16歳の時に、大学進学を希望する学生たちはその上のSixth Form(中等教育の上級課程)に進み、一年目に将来勉強したい教科から4〜5科目勉強し、二年目にはその中から3〜4科目選択して専門的に勉強するという。

ある程度勉強した専門知識を持って大学に進学する学生たち。大学では先生たちと答えが出ていないものの答えを求めて、勉強しあうという。

だからこそ、そこには「勉強が出来ないから悩んでいる」などという言葉は存在しないのだろう。あるとしたら、「知識不足で、先生の話す内容が理解できない」という悩みだけが存在するのであろう。

上田学園の学生たちも含め一般的に、学生たちには「勉強」と「学び」の違いをしっかり理解させておく必要があると考えている。とはいえ、本当に勉強と学びの違いは何かと言われて、「これです」と自信を持って言えるかというと、「う〜??」という返事しか出来ないところは、確かにある。それは、勉強と学びには意味の上で重なりあう部分があるからだろう。しかし「勉強」と「学び」と違う言葉があるということは、使い方が違うことであり、意味も違うのだ。

「学ぶ」とは、「真似ることだ」と言われている。「勉強する」とは、読んで字のごとくで、強く努める。即ち一生懸命努力して学ぶことだろう。

「勉強」を英語で言ったら「study」。Studyには「勉強する」の意味のほかにいろいろな意味がある。その中には「よく観察して、よく考える」という意味あいのこともある。確かに辞書を見ると、「勉強するとは、努力して体系的に研究すること」という説明があるし、「 学ぶ」の英語の「learn」の説明には、「勉強や練習によって教えられて、知識や技術を体得すること」とあった。 

確かに、小さいときから親は子供の顔を見ると、「勉強しなさい!」と連呼している。誰も子供に「学びなさい!」とは言わない。

それは、人が人間として生きていくための最初の基礎教育が、人間らしく生きていくための知恵をつけるための「学び」だからだろう。即ち、誰が教えたわけでもないのに、親や兄弟も含め、自分を取り巻く自分より先に生きている人たちをじっと観察し、無意識に真似することから学びの第一歩を自然にスタートさせていることでも分かる通りだ。

真似することを通して、叱ったり、怒ったり、歓声をあげたりする周りの人間の表情を観察。こんなことをすると自分の周りの人たちがニコニコ笑ってくれて、なんだかとても「気持ちがいいな」等と、小さな頭で色々考え、今まで以上にもっと自分のまわりを観察し、真似しようとする。だから、親たちは「何回注意されても、学ばないんだね」という言い方はするが、あえて「学びなさい!」とは言わないのだろう。


そんな真似の時期から、勉強や学びの時期に入る。それが学校教育の中で育まれる。

教えられたことを練習するという努力。努力して体得したことを体系的に積み上げ、応用する力。その年齢にあった勉強を通して、体得しなければいけない「継続すること」「努力すること」等の芽を、この時期に植えつけられていく。

例外的な人間を除いて、努力しても思うような結果の出せないのが、人生。だからといって、何の努力もしなければ、良い結果は絶対出せないのも、現実。

真似することで学んだことや、教えられたことを努力して自分のものにし、自分のために役立てられるようにということを無意識に教えたいがための言葉が、親が子供に使う「勉強をしなさい」の意味なのだろう。また教えてもらい努力して自分のものとした勉強が、学びの意味に近い状態から、努力して体系的に研究する状態になるのは、大学に入学してからのことだろう。

日本の大学が本来の機能を失い、就職予備校になってしまって久しい。その結果、学ぶことの本来の意味も、勉強する本来の意味も全く検証されず、ただただ「入学すること」にのみ意義を見いだし、それに猛突進する。結果、「何故学ばなければいけないのか」。「何故勉強しなければいけないか」と、入学してから思い悩み始める。それが進むと、「なぜ働かなければいけないのか」と悩み、就職することに躊躇する。「やりがいが見つからない」とか、色々言い訳を作って、「働く」という現実から一生懸命逃避しようと、あがく。

時間に追われ、一つ一つの言葉をじっくり理解することもせず、強く発言する人の意見に押し流されるかのように、自分をその意見に合わせ、でも「何かおかしい?」と感じながら、もんもんと「今」を続けているのが、現状だろう。

日本語の教師として文盲の人たちに日本語を教えた経験からも言えるのだが、字が読めなければ、地図は読めない。電話番号を聞いてもメモが出来ない。もらったお釣りは、正しいのか分からない。そんな不便な生活をしないでいいように、義務教育の学びや勉強は、人間として生きていくうえに不便ではないようにするためのものであり、そこで身に着けた「努力すること」や「継続すること」などが、その後の人生を納得したものにするための、大きな武器になる。

「学び」と「勉強」は、自分のためにするのであり、人生を楽しくするためでもある。そのために今しなければいけないことは、「出来ない」と嘆き、悩むことより、何が出来ないかを知るために、出来ないと思うことを全部テープルの上に乗せ、出来ないことを素直に認め、それを一つ一つ出来るようにするために、教えを請い、素直に学んでいくことが大切だろう。

自分が出来ないことを正視するのは、ある年齢からはつらいだろう。特に、優等生とか秀才とか言われたことが一度でもある学生には。しかし、現実は現実だ。勇気をだして、出来るだけたくさんの恥を克服して、色々なことを学んでいって欲しいと考えている。そして知って欲しい、大人になって掻く恥は、今よりキツイことを。学生時代に掻く恥は、「学生だから」と許される許容範囲の恥でしかないことを。

上田学園の学生も含め、若いときは「ええ格好しー」でいたいのは、当たり前だ。だから、自分を自分以上に優秀と見せたがったり、必要以上に「勉強が出来ない」と、立ち止まって悩むのだろう。しかし、それを続けていると、「格好悪い人間」「どうでもいい人間」に分類され、誰からも相手にされかねない。だからこそ、今元気に明るく恥を掻いて欲しいと願っている。例え自分にとって死ぬほど恥ずかしくても。

上田学園は応援する。大々的に恥を掻き、そこから這い上がってこようと努力する君たちを。

人は自分を「こう見ているはず」と思い込むのは、やめよう。そんなのは時間の無駄だ。何故なら人の考えていることを想像するのは、単に想像でしかない。事実のことでは、ない。

勉強が出来るとか、出来ないということを競うのは、上田学園の生き方に合わない。人の目を気にして、一番でいることだけに躍起になる必要もない。競って一番になったところで、賞賛されるのはほんの一時。それも狭い社会で。ましてそれで「その後の人生がバラ色になります」と、保障してくれるわけではない。自分が出来ないから自分のために自分の理解度にあわせて一生懸命した勉強や学びだけが、自分のものになり、自分で人生を切り開くときの底力になる。

くよくよ悩む時間があったら、出来ないことを出来るように努力しよう。昨日の自分より今日の自分のほうが、例え1ミリでも前進している事実に感謝し、それを愛でよう。そんな自分を大切にしていこう。そんな君たちを一生懸命応援しながら一緒に歩いて行けることは、何にもまして嬉しいことだ。

自分の出来ないことは出来ないと認め、肩から力を抜いて、出来ない自分自身と仲良く一緒に、上田学園を利用して勉強をするといいと思う。それが上田学園の存在理由であり、上田学園で勉強をする意味なのだから。

                  

 

 

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