●学園長のひとり言
平成18年7月3日
 (不定期更新)

                   挫折、バンザイ!

本当に悲しくなる。何がどうなったら、そうなるのか?と、ニュースを見ながら、考えてしまう。

「幸福って、何?」「優秀って、何?」「文武両道って、何?」「エリート校って、何?」「家族って、何?」「希望って、何?」「頭がいいって、何?」「友達って、何?」

頭の中に色々な「何?」が押し寄せてくる。「またか」という諦めの言葉と一緒に。

少年と呼ばれる14歳から17・8歳の子供たちが家族を殺害する事件は、この5年間で56件もあったという。家族以外に危害を加えた人数を数えたら、改めて驚かずにはいられない数になるだろう。このような犯罪がこんな年齢の子供たちによって起こされることを、誰が想像したことがあっただろうか。と言いながら、そんな言葉に慣れてきていることに気付き、恐ろしくなる。

子供たちの問題をもっと本気で考えなければならない時期が来ている。今までの来し方を振り返り、軌道修正しなければならない時代になっている。気持ちばかりが焦る。しかし何処かで「対岸の火事」、自分には関係ないという思いで事件を眺めてしまう。まるでテレビドラマを見ているような感覚で。

しかし現実は、世間体を気にした考えにどっぷり浸かった、でもそれを覆い隠すには十分な美しい言葉(?)、「個性を大切に」「好きな仕事をしなさい」「国際人になりなさい」等など、一見時代を先取りした物分りのいい親や大人を演じながら子供たちを追い立て続けている。

一度として「個性とは何か」「好きな仕事をするとは、どういうことか」「国際人になるとはどういうことか」などについて、子供に理解出来るような説明も、またそのために自分たちはどんな努力をしたか、しているかなどの説明もせず、「いい学校へ行きなさい」とか「いい成績をとりなさい」とか、子供たちが反発したくなるような激励の仕方で、彼らのお尻を叩く。

叩かれるだけ叩かれ続けている子供たち。彼らを取り巻く社会によって「勝ち組」「負け組み」の二つしかないカテゴリーに分けられ、益々追い詰められている。

子供は親が大好きだ。どんなことがあっても、どんな親であっても、これは絶対変わらない子供の心からの本音だ。

どんな子供よりも自分の子供が可愛い親は、笑った、泣いた、怒った、「ママと言った」等と、どの子供にでもやってくる成長の一過程に過ぎないことにも「うちの子は凄い!」と感激し、感動し、自分の子供が一番優秀だと信じ、その思い入れで子供の未来に大きな期待をかけ、また自分の果せなかった夢を託す。

そんな親の期待に子供は一生懸命答えようと、頑張って頑張る。その結果がよければよい程、「もっともっと」と今まで以上に子供に期待をかけ、何の疑問も持たずに親の夢を子供を通して実現化することに夢中になる。それも「大切な子供だから」という誰にも「否」と言わせない名目で。

実の親子であっても、子供は親とは異なる人間であり人格であることや、人間も動物であり、成長過程で親から独立して一人で生きていくための準備として親離れ、即ち反抗期という大切な時期を通り越していかなければならないということなどは、頭で理解していても実際は反抗期のないことをむしろ喜ぶ。まるで子供が親から独立することを拒否でもするかのように、何でも言うことを聞いてくれていた小さな可愛い子供だったときと同じように、子供と接し続けようとする。

子供たちは子供たちで、親や先生の言う通りやれば、褒められ、喜ばれ、賞賛される。それに支えられて年齢以上の、子供の許容範囲以上の知識を詰め込まれても受け入れていく。

成長に必要な睡眠時間が大幅に削られ、成長に必要なビタミン愛である家族との時間が削られ、食事時間もおしまれた不健康な生活を強いられる。

勉強を含め、親の力だけではコントロールできなくなる年齢に入ると、お金を使って問題を解決しようと、すべてのことを外注する。即ち、目的別の塾に入れる。

遅くまで塾で勉強している子供たちの夕食は、当然一人でとることになる。家族と話す時間が益々なくなり、食欲も出ない。その埋め合わせとして、スナック菓子や清涼飲料水の出番が多くなる。

誰が食べさせてくれているのかの確認が出来なくなった子供たちは、「餌を与えてくれる者がリーダーである」という動物社会の掟通り、食べさせてくれ、育ててくれているリーダーである親をリーダーとは認められず、平気で無視したり、軽視し始める。

偏った栄養や、睡眠で体力が低下。運動量も少ない上に、慢性睡眠不足が勉強の足を引っ張る。おまけに成長に必要な反抗期に突入した彼らは、自分の頭で考えようとするが、親の期待も裏切れないという思いも時々頭をもたげる。でも食べさせてもらっているという感覚が薄れている彼らにとっては、自分を支配しようとする親や大人たちの行動が納得出来ず、「否定したい」という思いが大きくなり、それに疲れ果てる。

何をやるのも嫌になる。下がってきた世間の評価にどう対応していいかも分からない。長い間の無理で金属疲労を起こしていた脳で考える現状打開法が、短絡的に問題の元凶だと思われるものをリセットしようとする。それも手段を選ばず。

親や教師や大人や社会が子供たちに夢を託したくなるのは、当たり前のことだ。しかしもう一度真剣に考えなければいけない。親業とは「何か?」教師業とは「何か?」大人業とは「何か?」。そして、そんな自分たちが生きている社会は、誰の責任で、どうつくっていくのかを。

簡単なことではない。だからこそ、単純に考えたほうがいいと考えている。

社会を形成するのは年齢に関係なく、人間。その根底は家庭であり、その考え方の軸は、夫婦。夫婦がお互いを尊敬しあい、大切に思いあう。

その夫婦が子供に自分たちの夢や希望を託しながらも、子供を一人の人間であり、個性も異なることをしっかり認識し、子供が自分の考えと足で立ち上がっていけるように、上手に反抗期を通り抜け、親離れしていけるそのときまで、そのときの年齢に合わせた指導をすると同時に、結果がどうであれ頑張ることを応援し続ける姿勢を常に伝えておく。それをしながら、ことあるごとに自分たちの経験談を交え、色々な挫折を乗り越えてくることの方法や、来し方を話す。

個性を伸ばすことと、甘やかすことの違いをしっかり認識し、時には子供をその年齢に合わせて突き放す。大人として格好悪くても、時には親のあがきも見せる。

大人は毎日色々な挫折から這い上がり、明日につなげている。大人の世界では当たり前なことを、子供たちに見せもせず、感じさせもせず、話もせず、期待だけを押し付け、号令だけをかけ続ける。それもエンドレスと思えるような方法で。

子供たちのもたらす問題で、親も教師も頭を痛め、一生懸命色々なことを考えている。でもその根底には常に「良い大学へ進まなければ」という思いがある。大学行かないことへの罪悪感や「偉くなれない」という強迫観念がる。

大学に行くだけが人生ではないこと、生きていくには色々な道があることは、理解しているし認めている。しかし自分の子供には、認めない。そんな親の思惑が、子供を追い詰めていく。

生きることは、食べていくことであり、食べていくには働かなければ食べていけないことをしっかり理解させられていない子供たち。追い詰められないまでも、親の思惑通り、有名大学に進学はしてみたが、何をしていいか分からずウロウロしているうちに卒業になり、就職になる。結果、引きこもってみたり、ニートになってみたり、仕事を覚える前に「好きなことをやらせてくれない」などと言い、会社を辞めてしまう。

親も教師も問題がおこることや挫折することを恐れ、子供たちが体験する前に子供にとって都合のいい方向で問題を解決してしまう。それも子供が気づかないうちに。

しかし、実際の社会は挫折の上になりたっている。自分の思い通りにならないことで成り立っている。だからこそ、思い通りにならないことをどう解決するのか。さまざまな挫折とどう向き合い、折り合い、そこからどう這い上がって行くのか。その実践をさせなければ、生きていけなくなる。しかし「可哀相」という思いで、実戦はさせない。その結果、社会から浮き上がり、人と接点が持てず、苦しみ、社会を拒絶する方向に逃げる。これしか生きる方法はないと、勝手に思い込む。親や教師や大人の思惑に反した、本当に可哀相な人生しか送れない要因になっている。

親も教師も子供たちから感謝されたり、尊敬されたりすることが仕事ではない。親業も先生業も子供たちから嫌がられ、煩さがられるのが商売だと思って丁度だ。嫌がられ煩さがられる中で、どんな挫折からも這い上がって自分の人生と格闘して人生をまっとうできるような力や知恵をつけられるように導くのが仕事だ。もし本当に尊敬されることがあるとすれば、それは人生の終焉の時だろう。即ち、人生の最後を子供たちに見送ってもらったとき、子供たちから「この親の子供に生まれて幸福だった」と言ってもらえることであり、感謝されることは「この親やこんな教師に出会えたから、今の自分がある。自分の人生、大満足だった!」と言って、自然の摂理通りに満足して人生を終えていってくれるときだろう。だからこそ、世間体や見栄を満足させる道具として、子供の人生を使ってはいけない。

これ以上、今以上、大切な子供たちを必要のないことで苦しませては、いけない。親の都合や大人の都合、社会の都合で子供たちを育ててもいけない。本当に子供に必要なことを考えて、教育していかなければいけない。

上田学園の学生たちには、煩さがれても嫌がられても今まで以上に絶対言い続ける、「恥をかきなさい!」「挫折を恐れないで!」と。そのために、自分の知らないこと、できないこと、興味の湧かないことにしっかり取り組み、自分で面白いもの、興味の湧くものに変化させていくことが学べるよう、ひとつひとつの問題から目をそらさず、見逃さず、じっくり確認しながら上田学園で起こる全てのことを、教材として使っていくつもりだ。そして煩さがれているついで、嫌がられているついで、どんな学生の問題からも逃げず、学生からも逃げず、一人ひとりの学生が自分の問題を正視し、努力するようになるまで背後霊のようにくっついて離れないつもりだ。


「上田学園の学生たち、真夏の夜の「悪夢」ではありません、私たちは絶対離れません。それがうざったかったら、社会に迷惑をかけず、彼なら、彼女なら『自分の道を一生懸命やっていく』と、誰にでも無条件で信じてもらえるまで私たちの前でたくさん失敗を繰り返し、数え切れない挫折をし、そこから這い上がって来てまた、失敗してみせてください。そんな君たちをずっと応援しながら見守っていきます。そして安心したら背後霊は卒業します。『ずっとそばにいて欲しいんですが』と言われても絶対、失礼します。それまでは諦めませから、覚悟をしておいて下さい」

 

 

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