●学園長のひとり言 |
平成18年9月8日
(不定期更新) 成 長 「日本人が少ない所です。たまに連絡もなく突然若い日本人が訪ねて来ることもありますが、そんな彼らとは違って、来タイ当初から本当に礼儀正しくて。今は彼が居てくれることがとても嬉しいですし、心強いです」 大学で講演をするため、株の平野先生とご一緒に訪タイした私たちの歓迎夕食会。席についたとたん、それを待っていたかのように大学で学んでいる上田学園の卒業生のことを、日本語を教えている日本人の先生が話し始めた。 そんな先生の話しを伺いながら、思わず考えてしまった。「彼は上田学園に何年間在籍したのだろうか。『3年間…?4年間…?』どちらにしても実際授業に出たのは、1年もあったかどうか」と。 「頭のいい子だな」というのが最初に彼に会ったときの印象だった。 小さいときは勉強も出来、有名進学塾ではいつも「特組み」にいたという。本当に「よい子」だったとお母様は言う。問題もなく聡明で可愛い子供だったとも言う。大好きだったとも。それだけに不登校になったときは、「うちの子が何故?」という思いで、苦しんだと。 「女物のサイズが丁度僕には合うんです」と本人が言うほど細く、柔軟な身体でヨガのように足を首に巻いて先生を驚かせたり、大好きなXジャパンのヒデの歌を「どこからそんな大きな声が出るの?」と聞きたくなるほど、ビンビン響く声で歌い、たまに出席した授業で、誰も彼に関心を寄せないと急にギターを掻き鳴らしたりしていた。 将来は作家になりたいとも言っていた彼の文章は、本当に上手だった。「その先がもっと読みたい」と思わせるものだった。が、上田学園に入学して最初に書いた長編、上田学園で行った一ヶ月間の海外旅行記。自宅から新宿の成田エックスプレスに乗るところで、ペンが折られた。 在籍3年か、4年。実質授業出席日数は約数ヶ月。楽しいことだけが続いたわけではない彼との思い出は、どれをとっても大切な思い出であり、学びであった。 授業にはあまり出なかった彼も、授業が終わった頃を見計らうように登校してきて、お母様をハラハラさせていた。そして不登校になった私立中学校時代の友人たちや「不登校協会」とかで知り合ったという友達などを、とっかえひっかえ上田学園に連れて来て、皆でよく食事に行った。 そんな彼の友人たちが「就職できそうもないので、もう1年大学に残ります」とか、「大学にいても仕方がないから中退します」とか言い出したころ、学生たちの企画による3回目のヨーロッパ旅行が、休暇でタイに帰国していたタイ語の先生を「表敬訪問する」という名目で、タイ経由で実施されることになった。 先生が在職するタイ北部の国立ナレーソワン大学。 あれからもう5年。本当に色々なことがあった。 現地の先生方に散々ご迷惑をかけ、助けて頂きながら2年間は日本語科の日本語講師として、そして今は本人の希望と、そんな彼の簡単ではない選択に、「筑波大学大学の留学生の中で、私は一番ビリの成績で卒業しました。それも大学院を卒業させることに反対する教授もいる中『二人の子供を親に預けて、一人で頑張って勉強しているんだから』と、指導教官が教授たちを説得してくれて、“おまけ”で卒業させてくれたのです。お陰様で、留学した学生の中では一番活躍し、留学したことを自分の国に一番役立てているのは、私が一番だと思います。今度は私がその役目を彼のためにします」と言い、事実日本の義務教育制度を参考に、3年前にタイの義務教育制度の基礎を築き実施した教育学部の副学部長に、公私に渡りご助言頂きながら「タイ語で学部入学した留学生第一号」として彼は無事、3年生になった。 彼は本当に努力をした。それを会うたびに変わる彼の顔が物語っていた。 買い物や女の子と付き合う日・タイ語辞典は、ある。しかし、大学で勉強するための専門辞書はほとんど、ない。 「この間、ゴキブリに足を噛まれました」と、あんなに綺麗好きで神経質だった彼が、一軒家で同じ学部のタイ人の学生たちと共同生活をし、彼らと生活をともにする中で、一つ一つの言葉の意味を想像し、推測し、他の誰かに使ってみて確認していく作業を「タイ語の教師」とし、タイ語を覚えながら大学の授業を受けている。 1・2年受験塾で勉強して受験する人が多い大検(現、高等学校卒業程度認定試験)にも、試験の二ヶ月前位から一日1・2時間自習し、1・2科目を除いて満点に近い成績で、それも一回で合格するだけの実力がある彼だから、なんとか授業についていけているのであろうが、それにしてもその努力は、並大抵のことではないはずだ。 8年間大学に在籍出来る日本とは違い、タイの大学は単位をとり損ねると即「退学」になるそうだ。その中で出来る限りの努力をし、頑張っている事実が自信となり、それが「一番ビリで、やっと3年に進級することが出来ました」という素直な言葉になって出てきているのであろう。そんな彼の今を見ていると、卒業生のヒロポンを思い出す。 7年間の引きこもり後入学した上田学園の授業。難しくて何をしているのか全く分からず、興味も湧かず、ただただ黙々と出来ることからやっていたと。それが辛くても、他の学生のように褒められなくても「俺は俺の出来ることを一生懸命やっている」という思いが、どんなに落ち込んでも、自分を支え続けられたと。そしてふと気がついたら、いつの間にかどの授業も楽しくなり、どの授業も、全ての授業に関連していること、役立っていることに気付き、どの授業ももったいなくて休めなかったし、笑われても全科目のノートを「持ち歩かずにはいられなかった」と、ニコニコしながら話してくれたことを。 ヒロポンと同じように自分で選択した道。一生懸命努力するしかなかった彼も「一番ビリだったけれど先生や友達に助けてもらって、やっと3年生になれました」と淡々と語る彼の顔は、「俺はすごいんだ!」と派手なパフォーマンスで周りを煙に巻いていた2・3年前までのことが、遥か彼方の出来事だったように感じるほど、自分なりに最善を尽くして手に入れたタイでの学生生活。その“自信”が、一段と魅力的な大人の顔をつくりはじめていた。 上田学園で学んだことは、ある日突然「生きる知恵」となり、実社会と結びつき、実質的に役立つ花を咲かせ始める。その日が上田学園からの本当の意味での「卒業」であり、その卒業時期は個々によって違う。 在学中に「その日」が来る学生。卒業寸前に「その日」が来る学生。卒業後すぐに「その日」が来る学生。何年かしてから「その日」が来る学生。その前の段階が成長期だ。 今また一人、タイ国とタイ人を味方につけ、上田学園からの卒業にむけ着実に準備をはじめた即ち、自分の人生のために本当の成長を始めた卒業生がいる。彼は卒業生ではあるが、その日が来るまでまだ上田学園のOBとして、応援を続けていたのだが。 「一番厳しい先生」と言われる日本人の先生に褒められ、またタイ人の教授たちからも「トシは本当に頑張っている。タイ人の学生の『良いお手本だ!』」と褒めて頂き、「皆様のおかげです。本当に有難うございます」と何度も頭を下げながら「お疲れ様、よくここまで来ました。あともう少しですね。最後まで今の調子で頑張って下さいね」と、心の中で卒業生の金谷君に話しかけていた、何とも頼もしく、誇らしい気持ちで。 金谷君の頑張っている姿に、ルンルン気分でタイから戻って3日目。嬉しい電話が入った。 ヒロポンからの「英語の試験、合格しました」という報告だった。 大検が「高等学校卒業程度認定資格」と名称が変更になったとたん、大検では選択科目だった英語が必修科目になり、受験をしなければならなくなっていたヒロポン。こつこつと勉強した彼に、テストの女神が微笑んだのだが。 「先生、本当にお世話になりました」とヒロポンのお母様からも電話が入る。 学生たちは日々進歩している。その進歩が例え1ミリの進歩であっても、100メートル進歩したように思えるほど、嬉しくなる。1ミリの進歩は、100メートルどころか無限に進歩する出発点だからだ。 学生たちがこの社会に納得しながら泳ぎ出すまで、今まで通り彼らの応援団長を努めさせて頂く。そのためにも上田学園自身も進歩し、成長し続けなければいけないと、肝に銘じている。 久しぶりに大声で歌いたくなった私のテーマソング「♪ガンバラナクッチャー、ガンバラナクッチャー♪」と。 庭から聞こえてくる「鐘たたき」の虫の音。今日もおせんべいをボリボリ食べながら、一生懸命調べものをしている学生たちの真剣な顔。そんな彼らの横顔を見ながら、なんとも穏やかな雰囲気の中、この幸せな気持ちを「皆さんにお届け出来たら」と思う。「上田学園のいいところは、在学中に結果を出さなくてもいいことですよね。それに、社会に出て、学園で学んだことのすごさを実感出来ることですよね」と言ってくれた卒業生の野呂田君の言葉も添えて。 |