●学園長のひとり言

平成19年2月13日
 (毎週火曜日更新)

気働き

 

30年近く日本語教師を務めるなか、多くの韓国人の教え子を持ち、彼らの問題を通して日韓関係について「一番近い外国。でも一番遠い外国」と感じておりました。が、喜ばしいことに最近の韓流ブームでいつの間にか「遠い親戚より近くの他人」という関係に変化を始めていると感じることも多くなりました。

それに比例するように韓国に嫁いでいる日本人花嫁が結構な数にのぼることを知り、内心驚いたのも事実です。それは、時代が変わったとはいえ韓国は未だに儒教の国だからです。

儒教の国で育った若い韓国の女性たちにとっても、韓国人の男性と結婚するのは「大変」と言う韓国社会で、なんでもかんでもアメリカやヨーロッパのコピーの中で教育を受け、勉強が出来れば家事など出来なくてもいいという風潮の中で育ってきた若い日本人の女性たち。そんな彼女たちが、儒教思想の中で生活をするのは「大変だろう」という思いがあったからです。

日曜日の午後、「海峡を越えた花嫁の本音 嫁との確執」というノンフィクションドラマを見ました。

韓国を見下すようにし、不満をぶちまける方。自分の思い通りにならないと、嘆く方。昔の日本みたいだと軽蔑する方。そんな会話は昔「ヨーロッパのいなかっぺ」とか「島国根性で心が狭い」等と、近隣諸国から言われていたスイス人やイギリス人に嫁いだ友人たちがよく愚痴っていた言葉でしたので、「時代が変わっても愚痴る内容は昔と同じなんだ」と、あまり驚きはしませんでした。ましてテレビで取り上げられた日本人花嫁は、実際に韓国に嫁いでいる日本人花嫁のほんの一握りにもならない数だと思うからです。

でも見ていて「よく頑張っている」という思いと同時に、見ている間中、なんだか恥ずかしくて仕方がありませんでした。そして気がついたのです、日本人の女性たちは高学歴かもしれませんが学校教育が本当に役に立っていないことや、家庭教育が全くなされていないことに。それが同じ日本人として恥ずかしく感じた原因でした。

日本人という言葉が使われるのは、外国の中の一つとしての国、日本。そこに住んでいる人たちが日本人。日本人として「あなたは何を考えているの」という問いかけが常に他の国から突きつけられるのが、日本とか日本人という言葉が使われるときなのです。

海外に住む、海外を意識するということは、日本の国と他の国を比較することから始められますが、その根底には「日本の常識、世界の非常識」という言葉があるように、どちらが正しいのかに関係なく、相手の国が日本とは違うという考え方で、相手の国を理解することから始めなければ、何事もスタート出来ないと考えております。それが出来てはじめて、どんな問題が起きてもそれを乗り越えられるだけの、自分の感情を頭で納得させられるだけの知識に裏打ちされた知恵を働かせることが出来、問題を解決しながら相手を本当に理解し、尊重していけるのだと思います。それが結果、相手が自分たちを理解してくれるようになるのではないでしょうか。

それにしても、ドキュメンタリーを見ていて思いました。日本の豊かさを象徴するような日本の若い女性や親御さんたちの身綺麗さ。頭を使わずのんびりすごしている平和ボケしたような無知さ加減。学校教育には熱心だが家庭教育がないがしろにされた結果、頭でっかちの気働きの出来ない人の“出来なさ加減”を。

働くという語源は、自分の周りの人を楽にするために力を出して動き回ることから出来た言葉だといわれております。ということは、気働きとは、自分の周りにいる人たちの気持ちが楽になるように心を砕くことだと思うのですが、気働きが全くできないようです。

気働きの出来る人は、相手の気持ちを推し測る能力の優れている人たちだと思います。言い換えれば、気が利く人たちのことを言っているのですが、他人は全く眼中になく、自分のことしか考えられない、本当の意味で自分のことを大切にしていない大人たちに育てられた若い人たちに、気を働かせるなどということが出来なくても、不思議ではないのかもしれません。

電車という公共の場で、大きな鏡を出して下地クリームから始まるフルコースでお化粧し、最後は髪をカールさせる道具をとりだして仕上げる女の子たち。ヨーロッパやアメリカでは売春婦しかしないと思われるようなファッションで歩きまわる女の子たち。

そんな彼女たちに対し、彼女たちの親はきっと彼女たちに興味がなく、注意などしないのでしょう。だからこそ、出来て当たり前と思えることも出来ず、教えられもせず、出来ない自分たちを「おかしい?」などと振り返ることなど考えもつかないことに、「仕方がないわね、貴女たちが悪いのではなくて、親の問題ですものね」と思ってしまうのです。

結婚することが女性の目的ではなく、目的は自分の納得する人生。幸福だと思える人生を、一人ではなく伴侶と協力して築いていくことでしょう。まして国際結婚。言葉も習慣も全く異にする二人が作る家庭。そこにはお互いに謙虚に相手を思いやる気持ちが不可欠になると思うのです。その結果、相手を取り巻く家族、社会、国など、あらゆることに気配りの出来る人になり、納得のいく人生が送れるようになるのではないでしょうか。

厳しい条件の中に飛び込んでいく日本女性に出会うと、今の日本の女性たちは男性より逞しいし、勇敢だと思うことがたびたびあります。でも30数年前でも、日本の女性は日本の男性より勇敢だし、とても逞しいとは思っておりました。

珍しい人間、日本人。土地の人たちからジロジロ見られたモロッコやクウェートの「こんなに不便な片田舎に?」と思えるような所に、アラビア語もフランス語も全く出来ない日本人が嫁ぎ、土地に馴染もうと一生懸命努力して頑張っていたからです。そんな彼女たちは謙虚に相手の国を理解し、受け入れようと努力し、実際嫁ぎ先の家族や土地の人たちから認められておりました。それは自分の分をわきまえ、出来ないことを出来ることで補い、不満をいう前に相手を理解しようと努力していたからでしょう。

それが出来たのは、学歴は今より低かったかもしれませんが、生活の知恵を持ち、出来ることが今の女性たちより多かったからではないでしょうか。その理由は、きっと家庭教育がきちんとなされ、例え満足にその国の言葉が話せなくても、マナーも習慣も違っていても、「良いものは良い」という世界の規範どおりに評価されていたからではないでしょうか。

上田学園の学生たちには、気働きの訓練の一つにもなるとの思い、例えばパーティーに来て下さるお客様にたいし、どうやって喜んで頂けるようにするか、お料理のメニューは何がいいかなど、買い出しから盛り付けまで、全部自分たちでやらせたりと、出来るだけ何でもさせるようにしております。そして、「やって欲しい」と他人に要求する前に、他人から「やらせて欲しい」と言ってもらえるようになること。人のために身体を動かすこと、役に立てることを「嬉しい!」と思えるようになることなど、勉強することと同じように大切なこととして、色々実践させるようにしております。

気働き、思いやり、気付きなどは、人間として生きるうえで不可欠なことです。しかしそれが出来るようになるには、まず他人に興味がないと出来ません。そういうことからすると、まだまだ上田学園の学生たちは発展途上中です。それでも上田学園の学生たちは課外授業の添乗員アシスタントや、営業などを通して、価値基準も、考え方も、人や国や時代によって違うということを、少しずつ理解しております。そして、その中で自分をどう表現するかということと格闘しています。

彼らが国内外に関係なく、一人の大人として色々な異文化の中で活躍していくために、彼らの周りにいる大人の一人としてしっかり苦言を呈し、色々なことを気付かせていかなければいけないと、ドキュメンタリーを見ていて思いを新たに致しました。

それにしても世界から評価されていた日本女性のきめ細かい「思いやり」や「気働き」。どこに消えてしまったのでしょうか。

綺麗になった日本の若い方々に、他人を気遣う心や、思いやりや、恥の文化が復活したら、日本女性の価値が「もっと上がるのに」と勝手に考え、残念に思うのは、私だけでしょうか。

 

バックナンバーはこちらからどうぞ