●学園長のひとり言

平成19年2月27日
 (毎週火曜日更新)

101歳の人生

 

「あなたは先生になるために生まれて来たんですね」
そんなコメントを頂戴したのは、教育実習の最後の日、教育実習をした高等学校の校長先生からでした。

母親も、伯母たちも皆教師だったからそんなコメントを頂戴したのかと思っていましたが、母親の時代には、学校を出た女性の出来る仕事は教師しかなかったからであり、決して教師に向いていたからではないということに気付き、校長先生のコメントには、ちょっとくすぐったいものがありました。まして、世の中のことなど全く分からないほど若かった私には、生徒にとって大切な授業をボイコットして行われる先生たちの賃上げ要求ストライキなどに全く同意できず、先生にはなりたいとは全く思っていませんでしたので、校長先生のコメントに素直に感謝することは出来ませんでした。

教師になるということなど全く考えられなかった私が今、日本語教師として30数年、上田学園の経営者として約10年。自分が教師という職業を選択したことも、その仕事で海外に長い間住んだことも、不登校とかフリースクールなどという言葉が出現し、今のような形で子供の教育にかかわるなどということも、全く想像だにできなかったことを思いますと、人生の不思議さを考えずにはいられません。ましてそれがたった一人の方の大きな影響を受け、その結果であることを考えると。

一通のはがきが上田学園に送られてきました。
両親よりも大切なお茶の先生のお孫さんから、先生が101歳の長寿をまっとうされたというお知らせでした。それも、私の誕生日の一週間後の2月16日に。

先生と出会ったのは、小学校の2・3年生の頃でした。両親の考えで、兄たちにくっついてお茶とお花を習いに行かされたのがきっかけでした。その小さなきっかけが先生との長い交流の始まりでした。

先生のご自宅は我が家から歩いて5・6分。裏木戸から入るとそこに小さな茶室があり、茶室の前に「武蔵野」のイメージそのままの野の草花で彩られた飾らない庭があり、茶室にはいつも近くの原っぱや、浄水場にそってある小道から摘んできた野花が生けられておりました。

「在釜」と書かれた木戸を通り、何も分からない小学生の私が毎週日曜日の朝9時に「おはようございす、早苗です」と声をかけながら、庭に面した障子をあけてお稽古に通ったあの小さな4畳半の茶室。そこで出会ったお弟子さんたちと人生で一番大切な時間を共有しながら、「先生のお弟子」として50数年を過ごさせていただけるなどと、私は勿論、他のお弟子さんたちも考えもしなかったことです。

お目にかかった頃の先生はまだ48・9歳。御茶ノ水女子大生と東大の学生だった時代に学生結婚した、防衛庁の偉い方だったご主人と、理科大を卒業して数学の先生をしていらしたお嬢さんと中学生の息子さんの4人家族。主婦をしながら、でもお茶の先生のイメージからほど遠いような男物の反物で仕立てた着物をしゃきっと着て、裏表のない気風のよい話しかたと振る舞いに、どんな方にも一目置おかれているのが分かり、小学生の私でもあこがれるような素敵な先生でした。

後年、それが先生の教養に裏打ちされたものであることを理解し、先生をもっと尊敬するようになると同時に、一度お弟子になると誰も弟子を辞めない理由が納得出来、私も他のお弟子さんたちと同様、ずっとお弟子でいることを全く不思議に思いませんでした。

先生からお茶のお手前は勿論のこと、お茶のお作法からはじまって、お茶の歴史、お茶の精神、お茶の哲学、日常のもろもろのことまで、本当に色々教えていただきました。それも先生の生き方を通して。

クラスで一番勉強が出来ず、ぼんやりしていた私でしたが、その私が「どうせ生きるのなら世界相手に生きよう!」などという考えをいつの間にか持つようになったのも、あの小さな茶室の中で先生やその他のお弟子さんたちとの交流を通して、大きな世界を見せていただいたからだと思います。

先生と出会ってから、先生のお弟子さんたちが娘さんから、お嫁さんになり、お母さんになりおばあさんに変遷していたように、先生の人生にも色々なことがありました。

お孫さんがお生まれになった直後に、30代始めだった最愛の息子さんを病気で亡くされたり、一番大切に思っていらしたお弟子さんを亡くされたり。でも先生の生き方は一時も変化することなくまっすぐに、先生らしく、先生の道を歩まれておりました。

お弟子さんたちは心配しながらも、そんな先生をとても誇りに思ってみつめておりました。だからこそ、どんなに遠方に住んでいても、どんなに生活が変化しても、誰も先生から離れずお弟子でいられることを嬉しく思っていられたのだと思います。

どの生徒さんとも公平に接し、淡々とでも一生懸命生徒たちのことを考え、心を砕いて下さった先生。外の喧騒からもどり、4畳半の小さな茶室にすわり、チンチンと茶釜をならすお湯の沸く音。草が生い茂る庭を通り抜ける風の音。静かな静かな音のない世界に流れる静かな音。その音に心が癒されていく中で点てるお茶。そしてその後に来る先生や他のお弟子さんたちとの語らい。

日本にいても、海外にいても、どんなに疲れていても、どんなに短い時間でも行きたくなった不思議な空間。あの感覚が後年上田学園の原点になり、茶室の囲炉裏を無意識にイメージして薪ストーブをいれたいという願望。学校がもっと大きくなったら旧い昔の家を移築し、中はモダンにしてそれを教室に。でも土間と囲炉裏は残して、授業のあと、先生と生徒たちが火を囲みながら人生について、生きることについて、仕事について、色々なことが語り合える空間にしたいと願い、頭の中に引かれている青写真。

一期一会の人との出会い。誰にでも可能性があり、誰にでも幸福になる権利があり、誰にでも学ぶ権利があり、その権利に守られながら、誰もが自分の人生を自分らしくまっとうするために努力を惜しまず生きていかなければいけないと、ご自身の生き方を通して教えてくださった先生。

101歳という人生を終えるのには不足はない年齢だからと思いながらも、心に力が入りません。ご恩返しもできないまま、でも先生のお心だけはお弟子の一人としてしっかり継承していこうという思いと、お心の広い方だっただけに、何を継承していったらいいのだろうという思いとで混乱している自分。

さびしいのに淡々としている自分の心。目に浮かぶのは、威厳に満ちた着物姿の先生。お茶室以外でお目にかかる先生は、夏なら白いコットンパンツにピンクのブラウス。肩に斜めがけされたリュックサック。イブサンローランの大きなめがねにヒールの高いサンダル。どうみても90歳に近い方とは想像も出来ないほど、背筋をまっすぐのばし颯爽として歩いていらした先生。

俳句を始めたばかりで、俳句が読めなくて苦労しているお弟子さんに「俳句は読むことから学ばなくていいのよ。人の俳句を読んで、どの俳句が自分は好きかという、好きな俳句を見つけることから入りなさい」とお話をしていた先生。

「お手前が難しくて覚えられません」というお弟子さん。右に置いてあるものは、右手で、左に置いてあるものは左手で。そして大切なもの、重いものは左に置いてあっても、利き手の右手で。当たり前のことを、当たり前に考えなさいと諭していた先生。

どんなに難しそうに見えても人間の考えることは、誰が考えても同じ。「特別なこと」と考えすぎると、当たり前に考えればいいことも難しくなり、手も足も出なくなるけれど、何事も普通に考えて処理すれば、自然に何でも出来るようになると教えてくださった先生。

どんなに高価な茶器でも、茶器はもともと韓国や中国の当時の庶民が使っていた台所にあった雑器。普通に「遠慮なく使いなさい」、道具は人に使ってもらってはじめてそのお役目がまっとうされ、道具もよろこび、道具の価値もあがるのだからと、何気なく毎日のお稽古に使わせてくださっていた先生。

「壊れたら?」と心配するお弟子さんに、「壊れるからいいのよ、壊れない茶器など魅力ないでしょう。壊れるから壊れるまで大切に出来るし、壊れるものを一生懸命丁寧に作ってくださるから、その作者に敬意をもて、もっと大切にするようになるのだから」と、笑ってお話くださった先生。

上田学園の原点である、武蔵野市の片隅の武蔵野の面影に包まれたような、一見手入れもされず、自然のまま無造作に放置されているように見えた小さな庭の中に建つ4畳半の茶室。侘び寂びなどという難しいことより、その時その時を大切に一生懸命生きることを一番重要なこととして、先生の生き方を通して教えてくださった先生。ご恩返しが直接出来なくなってしまった今、今以上に上田学園の学生たちを心してお預かりしようと心に誓いながら、「前のように時々伺って直接ご報告が出来なくなりましたが、先生見ていてくださいね。上田学園の学生たちがずんずん変化していることを楽しんでくださいね。どんなことがあっても、逃げ出さずに頑張ってやっていきますから」と心の中で手を合わせ、「でも先生お見事な人生でした、また尊敬しちゃいました」と話しかけております。

 

 

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