●学園長のひとり言

平成19年9月24日
 (週1更新)

そっと寄り添って


「それでいいのよ、そのままで!」
そんな理想的な言葉を言ってみたいと何度思ったことだろう。

学校を設立したころは、「そのままでいい!」と、本気でそう思っていた。しかし、不登校の学校を不登校する学生たち。好きなことだけしかやりたがらない、学生たち。苦手なこと、ちょっと時間のかかること、興味のもてないと思うことは、興味が持てるようになる前に簡単に放棄する学生たち。誰も気にもかけていないことを自分勝手に「恥ずかしい!」と思い込み、その問題から目をそらす手段として「僕、そこにいないもん!」と、まるで3歳か4歳児のように自分の両目を手で覆い、自分が何も見えないから人も自分の問題が見えないだろうと思うことで問題をやり過ごそうとする、“頭隠して尻隠さず”のもっとみっともないと思える状態を平気で続ける学生たちと接しているうちに「それでいいのよ、そのままで!」とは、言えなくなっていった。

個々の学生の潜在的な能力は素晴らしいものがあるだろうことは想像できるが、それを引き出していくにはやはりお尻をたたかなければならないこともあるし、叱られることも、注意されることも必要だと思う。それは育ってきた環境、条件が個々で違い、それがその子供をダメにしていると思えることもあるからだ。まして全員ではないが、苦手なことや興味のもてないことを、持てるようになるまで努力するという根本的な教育がされてこなかった学生もいるからだ。

確かに、親が絵描きであったり、デザイナーであったり、漫画家であったりしたら、その環境が学校になっていて、それに興味を持つ場合もあるだろう。しかし、その興味をもった世界で努力をしなければ、よほどの天才以外、それで生計をたてることは出来ないだろう。まして若い彼らに、それで生活をしている親たちが自分達の見ていないところでどんなに苦労し、どんなに努力をしてきたかを知ることは、難しい。

天才的な人で初めから商業ベースに乗ると考えられ、スポンサーが付く以外、絵が描ければそれでいいというわけではないし、漫画が描ければそれでいいとはならないと思う。まして社会で生きていくために最低必要な根本的なことは“家庭学校”ではなかなか修練できないようだ。

学校や塾など家庭以外で学ばなければならないことは、コミュニケーション能力だろう。コミュニケーションのとり方が学べるのは、最初は家庭の中の親子兄弟の間であり、それを基礎に、それの応用編として小さいものからだんだん年齢とともに大きなものになっていく。そのトレーニング場が幼稚園から始まり、大学も含めた社会だろう。その社会の中では、責任の度合いによってコミュニケーション能力が益々トレーニングされていくのだろう。

しかし、改めてコミュニケーション能力とはなんだろうかと、フッと考えさせられたのは、またまた悲しい出来事の記事が目に入ってきたからだ。それは16歳の専門学校生が、警察官だった父親を斧で殺してしまったという記事だった。

関係者や近所の方々、同級生だった人たちのコメントは、仲がいい家族で、当人は礼儀正しく、友達と問題を起こすようなこともなく、おとなしくて、お勉強もでき、問題のない家庭、問題のない子供というような、いつものような定番コメントだった。でも「父親が大嫌いで、消えてなくなればいいと思っていました」と本人の弁。こんな問題が起きる前に、そんな子供の気持に親たちは気付かなかったのだろうかと、似たような問題が起こるたびに思う定番通りの思いが私の頭を横切った。

「いじめでまた自殺者」そんなタイトルの記事も同じ日の紙面にあった。同級生からお金を要求され続けていた高校3年生がそれを苦に自殺し、お金を要求し続けていた同級生が恐喝未遂容疑で逮捕されたという。メールでお金を支払うように脅していた学生は、自殺した学生の親友だという。そして脅していた学生たちは「仲間内での遊びの一種」と、気楽にとらえていたという。

苦しくてどうしようもなくなり、この世から自分を消すことで苦しみを回避しようと、自殺という手段を選択する子供たちの悲しい選択もそうだが、「嫌いだから」「うるさいから」だから「この世から消したかった」と、嫌いな相手や、邪魔に思う相手をこの世から消すことで問題が解決できると信じて、それを選択してしまう子供による祖父母、親、兄妹殺し。そんな事件が起こるたびに、「現代は人間関係が希薄なんでしょう」とか「コミュニケーション能力の問題ですね」という会話が定番のごとく、ここかしこで交わされる。

「楽しそうに、親子で仲良く出かけていましたよ」とか、「兄妹仲良くて、妹の誕生日にケーキを焼いて上げました」とか、「ニコニコしながら問題になった友達のお弁当を買いにきていました」などという話を聞くと、「コミュニケーションがとれていたんだ」と思ってしまうが、それは単なる表面的な行為でしかなかったのだろう。

誰でも「コミュニケーション=会話」と考えてしまうが、いかにも楽しそうに会話をしていても、何か事が起きはじめて、本当に会話が成立していたかどうかの真価が問われ、問題が解決できてこそ、その真価が証明できるのだ。だから一見仲が良さそうに見えていても、それはコミュニケーションがよくとれていたのではないということなのだ。なぜならコミュニケーションは会話ではあるが、そこには「相手を思いやる」という優しい心が基礎になければいけないからだ。即ち、相手の話から相手の言いたいことや説明したいことなどを推測したり想像し、相槌をうち、そして返事を返す。それがベースになっている言葉のやりとりであって、表面的なその場だけの行動ではないからだ。

今の世の中ほど“推し量る力”、“想像する力”が欠如していると思える時代はないように思う。年齢相応の体験をしてこなかった結果、こんな社会が出来上がったのではないだろうか。

「体験がないと、想像ができないの?じゃ殺人をした体験がなければ、人を殺すということが想像できないから、それは大変なことになるよ」という方もいるだろう。まさに父親を殺してしまった16歳の専門学生の事件のように。

それは年齢相応に色々なことを体験し、その中で“推測力”“想像力”などが育まれた子供時代を過ごした人は、人を殺めると自分、家族、相手及び相手の家族、社会的制裁などを想像することが出来、推測することが出来るので、相手は勿論だが自分にとっても大きなリスクになることは、まず選択しないし、そんな選択はできないだろう。

想像性の欠如は、それをしたらどうなるかの想像ができないために残酷なことも平気でするし、想像性の欠如は一見会話が成立しているように見えても、相手の立場、相手の心情などが読めていないために単なる押し付けの一方的な意見で終わり、本来の会話の機能が全く成立していないということなのだ。これは子供だけの問題ではない。大人が起こす問題を見ても分かるとおりに。

想像力の欠如や推測力の欠如は、人の話を聞いて勝手に怒りだしたり、勝手にすねたり、勝手に恐れたりと問題を大きくする傾向があるだけに、その年齢にあった色々な体験、それも特に幼少時の体験、例えば飼っていたカブト虫が死んでしまった。それを「今日は生ゴミの日だから、このゴミ袋に捨てなさい!」ではなく、「かわいそうね。皆で庭の隅に埋めてあげましょう」などと言い、皆で庭の隅にカブト虫を埋め、お花やお線香を手向けて皆で手を合わせることを通して、“死”ということを意識させ、死にはリセットがないことを無意識に子供たちに理解させたりと。

友達とケンカしてすり傷を負っていたら、「誰がやったの、やあね!!」ではなく、傷を負うとこんなに痛いのだから、他の人も同じ。だから絶対人に怪我をさせてはいけないと説明しながら、手当てをしてあげる。そして相手の方に電話をするのであれば、まず「家の息子は怪我をして帰ってきましたが、お宅は大丈夫でしたか?申し訳ありません」という言い方をする。その時「あいつが先に殴ってきたのに」と子供は不満に思いながらでも、どちらが正しいのではなく、喧嘩をすると親は自分のために謝らなければならないという理不尽と思える体験をする。そしてどう問題を解決するかを親子でじっくり話し合って、例えば「ママだったらきっとわたる君に『おもちゃを取っちゃってごめんね。僕も一緒にそのおもちゃで遊ばせて』ってお願いするけれど」など、色々な事例を、年齢と問題に合わせて話してあげることが大切だと思う。

そんな親や大人の解説と共にした色々な体験は、ここまでやったら相手に大怪我をさせ、あの小さな喧嘩の傷でもあんなに謝っていたのだから、親は俺のためにもっと頭をさげなければならないから、「ここで暴力を止めなければ」と、小さな頭で自分と闘い、お母さんやお父さんが話していた事例の中のどれかを使って“お試しの話し合い”を始め、そしてその結果を積み重ねていくうちに、子供なりの想像力や推測力や応用力が発達して、本当のコミュニケーション能力が育っていくのだと思う。

上田学園にも“想像力の欠如”、“推測力の欠如”の問題で、本来その学生がもっているなんとも素晴らしい何かが、「育ちにくい」ということを体験している。それが邪魔して、社会との橋渡しが出来難くなっている。

彼は行動力もあり、人三倍は努力をしている。彼が上田学園の学生の一員になってくれたことで、石橋を叩いて、叩いて、安全を確認しても渡ろうとしなかった他の学生たちが、彼の行動力に後押しされて、即行まではいかないが実行することにあまり躊躇をしなくなった。しかし、何か問題が起きると推測力の欠如、想像力の欠如が、問題解決のための話し合いの腰を折ってしまい、前進させてくれない。まして、ちょっと自分に不利な話になると、聴くのが嫌で耳をふさいで、自分の殻にこもってしまうように見え、周りから誤解をされてしまう、「なんだ、あいつは!?」と。

「どうしたらいいのだろう」と泣きたくなる思いもするが、ふっと自分の昔を考えると、彼とたいしてかわらなかったということに気付く。それもほんの少し前までのことだ。

これは彼だけの問題ではない。上田学園の学生というより、現代の若者全部に共通して言える問題ではないだろうか。だから普通で何も問題がないと思われている子供が、思いがけない残虐な行為をしてしまうのではないだろうか。

但し、彼らと私と唯一つ大きく違うと思われることは、人間大好きな私は、自分と異なる行動をとる人に興味があり、「どうしたらそんな考え方が出来るのかしら」と、その方の話を「ずっと聴いていたい」とか、その方の10年後、20年後を「ずっと見ていたい」と、嫌がられても、嫌がられてもくっついて離れず、おかげで少しずつその方々の素晴らしさを心から理解でき、それを通して自分の愚かさを知り、それをなんとかしたいという思いに突き動かされ、その方々の生き方を真似させていただきながら、年々素直に人の話をきくようになり、色々な方に助けられて今日までこさせていただいていることだ。

ここ数ヶ月、初心を忘れて心を波立たせていたが、それをやめて、彼らにそっと寄り添っていこうと思う。私の友達や知人が私にやってくれたように。

「卒業までになんとかしよう」と焦ると、結果は“元の木阿弥”。時間を無駄にしないためにも、卒業までの期間限定ではなく、個々に合わせて、長いスパンで、学生たちにしっかり寄り添いながら、彼らの体験することを見守り、チャンスをうかがい、想像力や推測力の種を彼らの心に蒔き、その種に刺激を与え、そして彼らしか出来ない彼ららしい生き方を追求していけるような芽が出始めるまで、じっと寄り添っていく。

立ち止まってさえいなければ、10年人より遅く社会に出たら、人より10年長生きして死ぬときに帳尻が合えばいいだけのことだから、今まで以上にパスポート年齢にはこだわらず、行動年齢で判断しながら、彼らの未来を信じ、彼らが彼ら自身で納得のいく人生をすごすために、ずっと応援しながら寄り添っていこう。その場、その問題により、紆余曲折する自分の心と葛藤しながら、私をここまで支えてくれた方々に見習って。

それにしても、悲しい事件が多すぎる。なんとかならないかと、気持ちがざわつく。でも今は出来ることからしっかりやっていこうと思う。「それでいいのよ、そのままで」と心から言える、その日まで。

 

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