●学園長のひとり言

平成19年11月9日
 (週1更新)

迷いの中で

 

急に涙がこみ上げてきた。叱る声も嗚咽に変わりそうになった。
小さいときから人に文句ばかり言われてきたのだろう。だから文句と注意と心配を混同し、他人から何か言われるのは“文句”であり“小言”だと思い込み、人から何か言われると内容も聞かず、相手がひるむような言い方で意味不明な意見を言い募り、言われた人たちがあっけにとられ、思わず黙ってしまうことで「問題解決!」と勝手に決めてそれでよしとしてきたのだろう。事実学園の中でもそんな場面を何度か目撃している。

小さいときから人が信じられなかったのだろうか。そんな彼が哀れにさえ思えた。目を開けてしっかり見れば「問題は見えるよ、解決するよ」という思いで、「目を開けなさい」という思いで、彼を叩いた。

「貴方のお腹に住んでいる素直ではない虫を捨てなさい!貴方のことが心配だから本気になるし、本気で叱るの!先生を嫌いになってもいい、でも自分が楽になりなさい。自分をそんなにいじめないで!貴方のことがどうでもよかったら、ほっとくから。でもほっとけないの!貴方は本当はいい子だから。他の人が出来ない何かを貴方は持っていると信じられるから!」と言いながら、涙がずっととまらなかった。

出来るものなら抱きしめてあげたかった、4歳や5歳の子供にするように。抱きしめる代わりに頭をごしごしなでながら、人を信じられるようになって欲しい。信じられる人にたくさん出会って欲しいと、願わずにはいられなかった。

彼が鼻をすするのを聞きながら、信じられる人にたくさん出会えるようになるまで、私は彼の味方でいたいと思った。傍にいたいと思った。「絶対あきらめない!」と思った。

誰が悪いわけでもない。ただ一番しんどいのは彼本人だろう。されてもいない非難を恐れ、反論したり異論を唱えたりするたびに、人から反対に拒否されたり、嫌がられたりする。ほんの少し人を信じ、ほんの少し素直に人の話を聴く勇気を持てれば、いくらでもお互いが理解し合える可能性が出てくるのに、それが出来ない。非難されると思い込む前に、ほんの少し、自分から人に歩み寄ったら楽になるのに、それは絶対しない。もしかしたら人に歩み寄る方法が分からないのかも知れない。

ふっとリサーチの先生の言葉を思い出す。「同じ地面に立っているんだから、先生だ生徒だ、親だ子供だと言わず、お互いに近寄っていけばいいのよ。だって同じ地面に立っているんだからね」という言葉を。

なんだか自分の愚かさを感じる。同じ地面に立っているんだから、お互いに近寄っていけばいいと話してくださった先生の言葉に心が洗われたような気持ちになっていたのに。

人を信じられず上田学園に入学してきた学生たち。せめて学生たちと心をつなぎたいと願う。そのために何をしなければいけないのかと悶々とする。自分の愚かさに自分でまごまごする。せっかく同じ地面に、同じ人間として立っているのに。

時間の経つのは、早い。一日一日を大切にしていきたいと誰もが考えているはずだ。それは時間を戻すことが出来ないからだろう。でも、出来ることなら学生たちの小さいときに出会いたかったと思う。可愛い時代を見てみたいと思う。可愛い時代を見ていたら、今なにをしてあげたらいいのかが分かるのではないかと、その考えの根拠は何もないのだが、何となくそう思うのだ。

最近時々平ノッチに彼の小さいときの話を、半強制的に聞かせてもらう。「どんな子供だった?」と。

年上の子供に泣かされて帰ってきて、母親の前で天井向いて大声で泣いていたと説明する平ノッチ。自分の感情をなかなか外に表さずいつもひっそり座っている彼の顔から、小さいときの彼を想像して思わず笑ってしまう。

母親が一生懸命勉強を教えてくれるのに何も反応しないので母親に「聞いているの?」とよく質問され、最後はあきらめられて勉強は全然見てもらえなくなったと言い「親の話しを聞いていないことにも気付いていないような子供でした」と言う。「その時の貴方に会いたかったな!」と言いながら、お母さんがカリカリしている前で、ポケーッとしている子供らしい子供の彼を想像して、ますます嬉しくなり「ほら、君にもそんな可愛い時代があり、親も一生懸命だったんじゃない!」という思いで、彼の幼少話はますます楽しくなり、思わず声をあげて笑ってしまう。

どの学生にも、勿論小さな子供だった時代があった。多分無邪気だったろう彼らに何が起こり、選択しなくてもいいような苦労をするようになったのだろう。

理解できない学生のことをずっと考えている。他の学生たちと話してみた。「自分にも彼に似たところがあるので、多少は彼のことが想像できます。でも・・・、理解までは・・・」と言葉を濁す学生の説明を聞いていて、ふっと考えた。もしかして彼にとって叱られることじたい誤解かもしれないと。

そうやって考えてみると、普通人の話には話題のスタートとしてAがあり、次にBに進み、そしてC、Dと話がすすんでいくうちに結論に近づき、Eの話が結論として話されるし、中には勿論、話される前に話しの内容が想像できたりするし、その過程を踏むからこそEという結論の意味が、例え同意は出来なくても理解出来たりするのだが、彼の話はAからDまでの過程が頭の中だけで進み、急にEの結論や答えが口に出てくるから誤解されるのではないだろうか。それも本題から派生した枝葉の部分にすっとんでいったテーマの結論が。

彼の頭の中だけで繋がっている話の結論。それについて「そんな話はしていない!」と注意されたり、叱られても彼にしたら不本意だろう。他の学生たちが言った「周りがこんなに心配し、理解したいと思って努力しても、彼には痛くもかゆくもないんじゃないでしょうか。本人は周りが思っているようには思っていないし、悩んでもいないのだと思いますよ」という言葉は正解なのかもしれない。もしそうなら、人が信じられずに可哀想だとか、人が信じられるようになって欲しいと思うのは“傲慢”の何物でもないのではないだろうか。彼を可哀想だと思うことじたい彼に失礼なのではないだろうか。私は彼に失礼なことをしているのだろうか?

言葉は自分の感情や考えを伝える手段なのに、それを省エネでもしているように全く使おうとしない。顔にも全く感情が現れない。現れるときは、誰かの欠点をみつけたとき。誰かが困る顔をしたとき、嬉しそうな顔をする。そのたびに他の学生から注意される。しかし、人が困ったときなどに嬉しそうな顔をするのは、本当はどうやって慰めたり、どうやって注意をしたりしていいの分からないための照れ隠しなのかも知れない。でもそんな時に出る彼の言葉の強さで人が傷つくことも事実だ。但し、傷つけられて「落ち込みます!」と言う学生に、私は常に言っている。「言葉にナイフを持った人は社会に出れば山のようにいるから、今のうちに慣れておきなさい。そのときどうやって自分を慰め、立ち直るかをしっかり学んでいきなさい。彼は自分の言葉にナイフがあることに気付いていないだけに、大変だけどね」と。

そんな彼だから意地悪なのかと思うと、全く違う。勝手な行動ばかりをとるのかと思うと、そうではない。むしろ人一倍正義感が強く、人の嫌がることは率先してやってくれる。それもさっさとやってくれるし、人一倍頑張ってくれる。

頭の中がゴチャゴチャする。整理ができない。考えがまとまらない。何がなんだかわからないのだ、彼のことが。

他の学生が一生懸命考えながら色々な案を出してくれる。勿論結論は出ない。いい考えも出ない。「大丈夫ですよ!もう少し経つと、彼が何も話さなくても彼の頭の中がモニターに映し出されて、しっかり彼を理解することができる時代がすぐ来ますよ、きっと」と変な慰め方をしてくれた学生の言葉で、そこにいた皆で大きなため息を一つ、ついた。

迷いの中にいる、何をしたらいいのかと考えながら。

人には人それぞれのテンポで人生を進んでいくことは、頭の中ではしっかり理解している。しかし、彼に関しては焦る。「焦らないこと!」と自分に言い聞かせながら、どこかで焦る自分がいる。それと同時に、この学生にとっての幸福とは何をさすのだろうかと、考え続けている。答えが出るのかは分からないが、それでも答えを求めて遠くから彼を見ながら考え続けている。今だに答えは見つけ出せないが、ただ1つ今分かることは、今まで以上に大切な大切な学生の一人として、私の心の中に彼がしっかり存在しているということだけだ。


 

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