●学園長のひとり言 |
平成19年12月7日 子供をおもちゃにする大人たち
「世間をお騒がせして、すみませんでした!」こんなフレーズがここかしこで聞かれるようになり、儀式のようにこのフレーズと共にひな壇のお雛様よろしく、記者たちの前に一列に並んだ人たちが頭を下げている場面をよく目にするようになった。そんな儀式を見せられても「またか」の思いだけが残る。お相撲の朝青龍とボクシングの「亀田3兄弟」の二男・大毅(18)の問題も同じだが、企業の不祥事と違ってこの二人は芸能界に近いため、この手の問題が起きると“おまけ”のように決まって顔をだす有名な大学の先生や、ジャーナリストという方たちのどうでもいいコメントにも考えさせられてしまう。 頭の下げ方に誠意がないとか、インタビューのときの手の位置は、ふて腐れている心を象徴しているとか、果ては毛皮のコート云々。「だからどうしたの?」と言いたくなるようなコメントを聞くたびに、「こんな大学の先生から学ぶ学生は気の毒に」と思う反面、「あの手の学生には、丁度か?」と納得もしたくなるし、こんなジャーナリストが「ジャーナリストなの?」という思いとで、何となくため息が出てしまうのだが。 二人に代表される今回の問題はスポーツの問題ではなく、国際問題と教育問題だと考えている。 今回の朝青龍の問題で、大相撲が「国技だ」ということを知った若い人は多いことだろう。そして「でも、国技ってなに?」と思った若い人も、多かったはずだ。またスポーツと興行の違いを理解し、それで意見を言っている大人も少ないように思う。そんな曖昧さで国際問題、即ち外国人を、多かれ少なかれ巻き込んでいるのが今回の問題だと思うのだが。 朝青龍の問題が大きくなりだしたとき、外国人の学生たちと30年以上付き合っている“日本語教師”としての経験からと、“外国人”として13年以上海外に住んでいた経験から考えて、その国の言葉が出来ることと、その国を理解出来ていることと、何か問題が起きたとき、それに対応出来るだけの語学力が身についているということには、実際は大きな差があり、現実的に、外国人が何年日本で生活すればその力が付くのかということについては、明確に断言することは出来ない。だからこそ評論家やコメンテーターと呼ばれる方々のコメントを聞いても、何となく納得が出来ないし、説明できない違和感を覚えてしまう。 何しろ、日本人を50年60年やっているれっきとした日本人たちでも、会社の不祥事や子供の不祥事で謝罪会見するときオロオロして、的外れな意見を言ったり、誤解されるような言い方をして反感を買ったりするのを見れば、おのずと分かることだと思うのだが。 相撲が国技であって、日本にとって大切なスポーツだと考えているのなら、なぜきちんとした教育、即ち相撲の歴史、マナー、ルールなどを教えなかったのか。また教える以上、内容を理解するために必要な言葉をなぜ、きちんと教えていないのか。問題が起きたときだけ、「マナーだ!」、「ルールだ!」と言っても、言われた本人たちは不本意だろう。 買い物や遊ぶことに必要な言葉は、ある程度その国で生活していれば覚えるが、その国の人と対等に生活しようと思ったら、それだけの知識と語学力が必要になってくる。また、そんな苦労を強いる日本側も相手の国の歴史、習慣、考え方などをしっかり学んで、「外国人力士」を受け入れる土壌を作っておくのが普通の礼儀だろう。まして社会的な問題に発展するような出来事が起こったときは当然、日本の文化もモンゴルの文化もよく理解している日本語・モンゴル語のプロの通訳を間に入れて、朝青龍が言いたかったこと、協会が不信に思ったことをきちんと伝え、両者の考え方の違いや理解の違いを確認し、それから話し合いがもたれるべきだったろう。それが出来ていれば、今回の騒動は起きなかったという思いがしている。 世界が狭くなり、外国の方々が日本で生活をするようになった今だからこそ、色々な意味で外国人を登用するということについて、日本としての明確な考え方を確立しなければならないと考えている。こんなことを言うと、「国際的に孤立する」という意見も出ると思われるが、中途半端に国を解放しているほうが国際的に問題になると考えている。だからこそ国際的な観点からというだけで、安易に国を開放するべきでないということを、今回の事件を通して確認する必要があると思う。特に顔が似ているとか、習慣が似ているとかいって東南アジアの人たちに対し「分かるよね」は通用しない。「貴方は日本人みたいですね」と日本人に言わないことでも分かるように、自分たちのやっていることが不遜なのだということにも気付くべきだ。顔が似ていようとも、習慣が似ていようとも、彼らは外国人なのだということを。 国を開放するということは、開放した外国人に対し責任が発生する。今回の騒動のように、日本に力士のなり手がいないからといって、海外から安易に力士になれそうな若者を連れてきて、国技としての“品格のある力士”を育てることより、単に「強くなれ、一日も早く横綱になれ!」と言い続けて、一人前の力士を製造するような教育には、大きな落とし穴があることを日本人は自覚するべきだろう。 まして教育も何もしないで、ただただ強くなれを連呼し、それに答えられている間は日本中が彼らを絶賛し、何か事が起こり、それが「日本人として受け入れられない」、「理解できる範疇外」と思うと、日本中で自分たちの非を棚に挙げて非難する。このことの方がよっぽど国際問題だと思うし、非難される側にとっても「何故?」という思いで納得いかないのは当然だし、酷なことだろう。 朝青龍の問題は何も相撲協会にだけ関係したことではない。病院のヘルパーの問題も同じだ。人手がいないからと安易に外国人ヘルパーの採用を認めると、大きな問題になるということは、長年住んだスイスで嫌というほどその事例を見てきているだけに、想像に難くない。責任ある行動をとるためにも日本政府は外国人労働者をたくさん受け入れているスイスやオーストラリア等にでも人を派遣し、どんな問題が起きているのか、実例を確認し、それに対してどう対応し、対処していくのか、日本側の考えを明確にしておく必要があると思う。その明確な意思表示こそが、国際社会で認められる第一歩だと考えている。 ボクシングの亀田三兄弟の問題に関しては、正に現代の学校教育問題、家庭教育問題を浮き彫りにしている。 学校に行くことよりジムで汗を流すことに生きがいをみつけ、確かに努力はしてきただろうが、彼らをテレビで初めて見たとき、彼らに「ボクシングがあってよかった!」と、ホットした覚えがある。それは、彼らにボクシングというものがなかったら多分、ただ不登校になるだけではなく、悪いことをし、警察の厄介になっていただろうことが、容易に想像できたからだ。そんな彼らを「勝つために手段は選ばず」とお見受けした亀田父は、容認こそしても、いさめることはなかっただろう。 本当に世界に通用するボクサーに育てようとしたら、どうしてしっかり日常的なマナーや、言葉使いや、日本の代表として接する対戦相手の外国人ボクサーとの接しかたを教えなかったのだろうか。そのためにも、せめて義務教育をしっかり受けさせ、国語力をつけ、本を読み、人の話が聞けるだけの、その年齢で一生懸命考えられるだけの、基礎学力をつけてやらなかったのだろうかと、今回の騒動を見ていて思った。 朝青龍と亀田三兄弟の騒動は起こるべくして起こったと思えるほど、今の日本を象徴したような騒動だったように思う。 勝てば官軍、負ければ賊軍。勝てばなにをしてもいい。そのために周りは何でも本人たちの言いなりになる。善悪の判断力も何もない小さいときから、タダタダちやほやして、中国的に言うならば“小皇帝”。未成年の彼らに甘い言葉はかけても、人生の糧になるような厳しい言葉をかけない。その上、皆が彼らの言うことに逆らえない。皆が彼らのマネージャーになり、彼らを“裸の王様”にしてしまう。正に、受験戦争に勝てば他のことは「どうでもいい」と甘やかされ、その結果、自分の思う通りにならなくなると家庭内暴力に走ったり、人を殺めてしまったり、いじめで友達を死に追いやったりと、新聞紙面をにぎわしている子供たちと同じ、親たちのおもちゃになっている。 結婚出来ない女、出来る女。東大合格・不合格。いじめる人・いじめられる人。ワイロを取る人・取られる人。世の中で成功した人・しない人。理不尽を通して迷惑をかける人・かけられる人などと、書き出したらきりがないほど、勝ち組・負け組と区分けして評価したがる風潮。 悲しい事件が起きるたびに「いじめはやめましょう!」と、世間もマスコミも騒ぐが、その舌の根も乾かないうちに、その原因の究明もせず、勿論反省などするという考えもなく、“いじめ”としか思えない方法で、色々なことを勝ち組と負け組に選別して叩く今の日本。それを誰も「ヘンだ!」と気付かないほど、心が病んでいる日本。もっと足元から問題を解明し、そしてきちんと対処していきたいものだが。 今回の騒動の一番の加害者は、朝青龍でも亀田兄弟でもないだろう。一番の加害者は親方や亀田父を含む、私たち大人だ。特に彼らを取り巻く大人が自分の利益のためにしか彼らと接触せず、彼らには大人より長い未来が続いていくということを、彼らの周りにいる人間の、親をはじめとする誰一人として気遣ってあげなかったという、悲しい現実。 相撲もボクシングも寿命の短い世界だ。その後の人生は現役時代の何倍もある。だからこそ、その世界で活躍を始める前にしっかり人間としての基礎を叩き込む必要があると思う。それがしてあれば、成功すればするほど謙虚になり、自分たちをおもちゃのように扱い、金目当ての無責任な大人たちの言う通りになることもなく、裸の王様にもならずに済む。長い人生の中でぶつかる色々な問題に対しても、それ相応の対処が出来、それを糧にもっと成長しながらそこから這い上がっていくことが出来る人間になれると思うのだが。 世の中、悪い人は多い。そんな世の中で生きていくにはある程度“悪い人対策”も必要だと思う。その「対策とは?」と聞かれても、正直よく分からない。テレビドラマではないけれど、見るからに悪そうな人なら、見た目で警戒できるが、本当の悪(ワル)は、見かけからでは分からないことのほうが多い。おまけに人間、甘い言葉に弱い。だからこそ、判断基準になるものをしっかり学ばせると同時に、自分の生き方の指針になるものが確立できるように、自分の頭で考えられる人間に育てなければならないだろう。 今回の問題を通してつくづく上田学園の学生たちに願ったことは、「悪い大人のおもちゃにされないように」ということだった。それと同時に、ちやほやされることより、厳しい意見を言ってくれる人に感謝できる人間になって欲しいということだ。 「使い上手に使われ上手」。上手に自分を使ってくれる人に出会えるよう、また上手に他人を使える人間にもなるために、しっかり両目を開けて世の中が見られるようになって欲しいと願っている。 亀田大毅の謝罪会見(?)のニュース。ボクシングのことは全く分からないが、このまま成長したらボクシングは強くなるのかも知れないが、どうしようもない人間になってしまうように思え、哀れにさえ感じた。誰か本気で彼を心から愛し、心配し、いさめ、誠心誠意彼が大人になるのを応援する“まともな人間”が、彼の周りにいることを願わずにはいられなかった。 また朝青龍の謝罪会見のニュース。日の丸の国旗を否定し、国家斉唱に起立を拒否すると思われる人たちまでもが「相撲は国技だから」と「国技」を連呼し大切に守ろうとする様に、何だかとても不思議な感じがすると同時に、本当の意味で国籍に関係なく、相撲を愛し、相撲道に生きようとする人たちに、日本の国技である相撲とはどういうものか理解できるよう、きちんと導いて欲しいと願わずにはいられなかった。 現代の親子関係を象徴しているように思えて仕方がない朝青龍や亀田三兄弟の問題。 親から必要以上に大切にされ、注意したら自分たちから子供が離れてしまうことを恐れ、悪いことをしても、ルール違反をしても注意はおろか、全く口出しもせず、子供のいいなりになっている親たち。そんな親たちが将来、子供たちから起こされる問題と、今回の問題は同質だろうと考えている。即ち、モンスターペアレンツの子供たちが、モンスターペアレンツをギューギューと言わせて困らせる“モンスターチルドレン”になるということなのだ。それだけに、今回の騒動を相撲界やボクシング界の出来事。又は、単なる芸能ニュースとしてとらえずに、家庭にも起こりうる問題としてとらえたほうがいいと考えている。
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