●学園長のひとり言

平成20年10月18日
 

大人の身勝手

 

我が家の朝は、テレビが時計代わりだ。だから内容が気になる時と、全く気にもせず聞き流しながら「そろそろ家を出る時間だな」と考えながら、バタバタ準備をしている時とある。でも今日は違った。思わずテレビの前に行き、画面に釘付けになった。それは大阪の幼稚園の強制立ち退きのニュースだった。

途中から聞き耳を立てたそのニュース。内容は第二京阪道路建設予定地に幼稚園の野菜畑があり、その売却をめぐり5年前から大阪府と話し合いが繰り返されてきたようだが、保育園側の「子供たちの大切な食育の場なので」と拒絶にあい、話し合いが決裂し、そして今回の強制処置がとられたようだ。

泣き叫ぶ人。強制執行者から畑を守ろうとする人。そしてそんな大人たちを不安げに、また泣き出しそうな顔で見守る子供たち。そして自分たちの感情を抑えながら黙々と仕事をする執行担当の職員たち。なんとも切なくなる映像をみながら、ふっと大人の身勝手さを感じ大きなため息が出てしまった。

確かに子供の教育は大切だし、食育もとても大切なことだ。また道路も大切だし、国民として法律に従うのも大切だ。そして色々な状況の中、色々な感情の交差する狭間で自分を押し殺して仕事をしてもらうことも大切だし、また個々の権利を主張することも大切だ。だから今回の騒動に異論を挟む余地はないように思うのだが、テレビを見た後、なんとも違和感が残り嫌な気分になった。それは、自分の主張や立場を守るために子供を盾にしているように見えたからだ。

「子供がせっかく作ったんですよ!」「子供の前でひどいじゃないですか!」など、抱いている子供や手をつないでいる子供を前面に押し出すようにして叫んでいる関係者。子供の、恐怖心で引きつった顔を見ると、子供のことを思って一生懸命やっているのだろうけれど、私には子供を盾に自己主張を通そうとしているとしか思えない残念な光景にしか見えなかった。

生きていると色々な大切なことに囲まれる。その大切なものには優先順位をつけて処理していかなければならないことも、多い。また、利害が発生するものは立場が変わると判断基準が変わり、その結果、善と悪のような構図が出来上がる。その善悪の構図は、判定する方向からどちらにとっても善であり、どちらにとっても悪になるという始末に終えないものなのが多い。だからこそ、話し合いが必要になるし、妥協しあえる接点を探す必要が出てくるのだが。

ここまでは大人の世界のことだ。その現場に子供を巻き込むことはどうなのだろうか。例えそれが子供のためだということであっても。

大人は子供を育て、教育するのは当たり前なことだ。だから例えそれが子供のためであるからと言って、その騒動の現場に幼い子供たちを立ち会わせ、子供たちの心に傷を残すようなことをして自分の主張を通していいというものではない。それをすることで自分たちは満足するかもしれないが、子供の心に残った恐怖心や傷はどう取り除こうというのだろうか。

モンスターペアレンツから始まり、親殺し。フリーターの問題。不登校や引きこもりの問題。ニートやストレスによる犯罪などなど、毎日のように起こる多くの事件の根底には、彼らの子供時代に「子供のため」という大人の身勝手な思い込みや行動があり、それが大きな要因になっているのではないだろうかという思いがある。

子供に幸福な一生を送ってもらいたいと願うのは、当たり前なことだ。だからと言って子供のためにお尻を叩き、子供のために自分の夢を押し付け、その結果、子供は学校に押しつぶされ、社会に押しつぶされ、犯罪者の烙印を押され、社会の落ちこぼれというレッテルを貼られ、自分の居場所が見つけられず、その苦しさにのた打ち回る。そんなことの何処に子供の幸福を願い、子供のためにやったと言えるというのだろうか。

想像が極端すぎるかもしれないが、今回の幼稚園騒動。どんな理由があるにせよ、この間生まれたばかりの子供を盾にしているように思えることは、賛成したくても出来ないという思いがした。でも良く考えてみると自分の日常にもこんなことはよくある。「学生のため」と言いながら本当は自分の都合だけのときが。

気をつけよう、自分を戒めようと思う。学生の人生は長い、私のつまらない都合や身勝手な思い込みや考えで彼らを盾のように使うのは。彼らを盾に使うときは、彼らにしっかり説明し、納得してもらい、そして盾になってもらおう。いや、盾になってもらうより、味方になってもらおう。何しろ上田学園の学生たち。精神年齢は幼いところがあるが実年齢は18歳以上だから。それにしても色々考えさせられた朝のニュースだった。

 

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