●学園長のひとり言

平成20年11月6日
 

 ただ待つ!

 

「日本の先生は可哀想です。12歳。東ティモールではもう自分の判断で自分のことをします。畑をしたり、学校へ行ったり。日本の12歳。お行儀悪いことして、自分でパンを飲み込んで死にました。喉に詰まらせて死んだのは先生のせいだと親が言います。信じられません。12歳はもう自分で考えられます。何をしたら自分がどうなるか、自分で判断できます。日本人はおかしいです。東ティモールの親、こんなこと先生に言いません。子供が悪いと言います。時々日本のニュース、見たくないです。日本人、おかしいです。日本の先生は可哀想です。いい仕事できません。」

 コーヒーブレーク。日本語の勉強をしている二人の東ティモール人の学生と、フィリピン人の学生が、「日本人のすることは信じられない」と口角泡を飛ばしながら一生懸命訴える「日本人はヘンだ!」とも。

 確かにこのところニュースを聞いていて、聞くのがいやになることが多い。親殺し。子殺し。ストーカーや痴漢行為。パートナー殺し。振り込め詐欺。モンスターペアレンツ。いじめ。不登校。企業の不正問題などなど。自分だけが満足したくて、自分にとって不利だと思えることには異常なほど敏感に反応し、人を殺めることも、騙すことも、なんでも他人の所為にして自分を正当化させて行動する。そんな自分の行動に何の疑問も持たない。

「日本はどうなるんですか?」と質問されても「私も知りたいんです」ということしか言えない。ふっと上田学園の学生のことを考える。色々な理由で上田学園に入学した彼らのことを。

上田学園の学生たちは年齢も、性別も、学歴も、経験も、育った家庭環境も、入学した理由も、勉強する心構えも全く違う。ただ共通しているのは、フリースクールである上田学園に入学してきたことと、家庭や親に見せる彼らではなく他人が見る彼ら。即ち「外の顔」の彼らが上田学園に居るということだ。そんな外の彼らと付き合いながら自分と闘っていける力を育てることが、私たちがしなければいけない教育だと考えている。

「外の顔」。これは上田学園をして思い知らされたことだが、学生たちの「外の顔」と親が見ている「内の顔」即ち、家庭での顔に大きな差があることが多々あることだ。その差が、何か起きる度にその関係者が一様に言う「子供のときは素直で言うことを良く聞くいい子で、勉強が良く出来ました。こんな問題を起こすとは全く想像もしたことがありませんでした」という言葉に表されているように思えるのだが。

私の母も含め、昔の親は常に子供が親の見ていないところで人様に御迷惑をおかけしているのではと心配し、外の顔に関して問題が起きたとき叱ってくれる方、注意してくれる方々に感謝はすれど文句を言ったり苦情を言ったり、ましては自分の考える子供と世間が考える子供の差に対して不満をぶつけるようなことは、なかった。それが親の常識だったからだろう。

時代が変わり、子供の数が少なくなり、以前より経済的な余裕も時間的な余裕も出来、子供に対し過干渉気味の親が増えた結果、子供たちは親の顔だけを見、親の期待に応えようと頑張る。親の前だけで良い子を演じる。親の期待に応えられないと思うと、健気な子供たちは親の心が自分たちの問題でなるべく傷つかないようにと、親の期待に応えられない原因を他人の所為にして問題回避をする。そんな子供たちに後押しされてでもいるかのように、子供のことに関しては、言いたいことを言うのが自由であり権利であるとばかりに、自分の中で問題や言葉をしっかり咀嚼する前に、何でも口に出す。

おまけに目先の時間に追い立てられる。チョッと立ち止まって大きな深呼吸を一つして、もう一度考えてみる。そんな時間がもったいないとでもいうのか、あらゆることの辻褄合わせを短時間ですませ、自分だけは「納得しました」と言える決着をつけたがる。そんな大人たちの行動を子供たちはじっと眺めて何かを察知し、それを自分流にして実践をしている。それが時には、まるで“因果応報”とでも言いたげに機能し始める。

東ティモールの学生たちの話を聞いた数日前。学園の近くの小学校のオープンクラスの見学に行った。2年2組。「子供から学ぶ」という水曜日の授業の先生役である子供のクラスの授業だ。

1時間目、国語。2時間目、道徳。3時間目、算数。そして4時間目に岐阜大学の先生の「子どもと心」という講演を聞いた。

久しぶりの小学校。25・6年前に教えていた小学校2年生のクラスのことを思い出しながら父兄側に立って授業参観をさせて頂き、考えさせられることが多々あっただけに、東ティモールの日本語の学生たちの言葉が身に沁みた。そして「そんなに急いで何処へ行くの?」という言葉が頭を横切った。

人生は確かに時間限定だ。決められた時間しか生きられない。その中で自分の人生を自分で作っていかなければならない。自分の人生を作っていく上で出会った人たちの大切な時間の一部を頂戴する形で、生かされていく。それだけに何処に時間をかけるのかが重要になるのだが。

上田学園に入学する前の学生たちが一様に言う言葉がある。「どうせもう駄目ですよね。もう22歳になってしまったし、5年も引きこもっているんですから」とか、「上田学園の授業についていかれませんよね。中学もまともに行っていないんですから」とか。そんな言葉を聞くたびに、「だからどうしたの?」と聞き返す。

学校は出来ないから、学びたいから、行くところだ。決していい点数や先生や親が考える答えが出せるから行くところではない。色々な理由で他の人より5年遅れて社会に出たら、人より5年長生きして人生を終えるときには帳尻を合わせ、納得して自分の人生を終えればいいだけのことだ。そのためにかかる時間はけっして無駄な時間ではない。少しくらい時間がかかってもいい。他人と同じ時間内に同じ結果を出さなければと焦る必要もない。不登校や引きこもったその時点で、もう他の人と時間の流れが変わったのだ。その時間の流れを元に引き戻そうと思っても出来ないのが、時間なのだ。それなら、それを認め、これから流れる時間を大切にし、未来に結びつけていくために動いたらいいと考えている。そのために必要なのが、過去からの卒業だ。

 過去から卒業するということは、過去を学びに変えることであり、それには少し時間がかかるのが、現実だ。勿論個々によって多少の違いはある。それまで彼らを心配する親や教師たちからうんざりするほどお説教されたり責められて来た経験が、問題から目をそらすことでなんとか自分を正当化させ、やっとのことで自分を保ってきたためなのだろう。その習性から抜け出すのに時間がかかるのだ。

上田学園では1年目はあまり煩わしいことを学生に言わないことにしている。そのためにも何かある度にチラッと見せる「外の顔」を見逃さず、しっかり考え、自然に学生が動きだすのを、待つ。どうやって自分から自分の過去と向き合い、どんなに辛くても、どんなに大変でもそこから逃げず、家族、友達、先生を味方にしながら、一人で問題に立ち向かって行こうという気持ちになるきっかけと出会うように。その出会いを在学1年目の大切な目標と考えているからだ。

条件が全て異なる学生たち。未来に向けての第一歩が出せるようになるのに1年半かかることも2年かかることも3年かかることもある。しかし、1ミリでも変化を始めると、卒業式のその日まで変化し、その変化が卒業して大学生になったり、社会人になったりしても続いていき、生きること、仕事をすること、友人たちと話すことなどに喜びを感じ、それなりに毎日を納得し、努力し、逞しく生きている。そこまで行くために学園がする大切なことが、色々な刺激を与えながら「待つ」ということなのだ。

「待つ」のは辛いことだ。怒鳴ったり、叱ったり、脅したり、説得しながら子供たちのお尻を叩くのは、じっと待つより簡単なように思えるが、それでは一時的に問題が解決しても、本当の問題の解決にならないと考えている。おまけに、学生に気付かれないように刺激を与え、「後がないよ」と気付かせていくことはもっと大変なことだ。時には「上田学園は何もしてくれない」というふうに親の目に映り、その親の焦りに学校の方針がぶれそうになるからだ。

でも、どんなになってもやはり学生たちをあきらめることは出来ない。こんなに優秀な未来をもっている学生たちを。今少し時間をかけ、色々な仕事をしている先生たちから生の社会の声を刺激に、未来に向けて動き出すのをしっかり待っていこうと思う。動きだした彼らこそが日本社会を健全に動かす大きな力になると信じられるから。それが外国人から「日本はどうなっちゃうんですか?」という質問に対し、「大丈夫です」と言える一つの大きな要因になると信じているからだ。

 

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