●学園長のひとり言

平成20年12月20日
 

嬉しさと、誇らしさと、感謝と

 

胸がドキドキする。上田学園の先発隊として私を含む4名の人間が落ち着かない気持ちで開演を待つ。自分が舞台に立つような気がし、自分の呼吸も脈を打つ拍の音も煩く感じる。

舞台が開く。何処に誰がいるのか、見分けがつかない。主役の真希先生の顔だけがはっきりと見える。

舞台が静かに進行していく。隣に座っていた先生が私に耳打ちする「彼ですよ」と。

舞台の上では先生役の男性が演じている。長いセリフをしゃべる彼の声が小さな劇場とはいえ、こんなに隅々までも届くことに驚く。しかも、自然に役になりきっている。そこには、話の出来ない普段の彼は何処にもいない。そんな彼が演じる舞台にいつの間にか引きこまれていく。あんなにドキドキしていたことなども全く忘れて。

上田学園にオギッチが入学してきたのは、4年前だ。演劇どころか、まともに話すことも、自分を表現することも大の“苦手”。いつも人に誤解され、また誤解を与えていた。そんな彼が真希先生の授業を通し、舞台にたつことを選択したのだ。

長いセリフのある先生役と、何もセリフがなくただ舞台を横切っていくだけの、でもとても重要で意味のある郵便配達人の役を、これまた自然に味のある雰囲気で演じた彼に思わず大きな拍手を贈って、オギッチの初舞台が終わった。

着替えを済ませ、お客様に挨拶をしている真希先生や、同じ舞台に立っていた先生の御主人の佐野史郎さんに御挨拶をしているところへ、着替えを済ませたオギッチが出てきた。そして舞台のオギッチは幻覚だったのだと思えるほど、いつものぶっきらぼうで口下手なオギッチがそこにいた。

「先生、上手だったでしょう。彼は最初から本当に上手でしたよ」と、真希先生に御紹介して頂いた演出家の山崎哲氏が褒めてくださった。そしてオギッチを本気で「自分の養子に欲しいくらいです」と言って下さった。

オーディションを兼ねたワークショップに参加した数日後、本気で叱られてはいるが「人間が純粋で、本当にいい奴だ」と演出家の方が荻原を褒めてくださっているということは、真希先生から伺っていた。そのことを直接山崎氏の口から伺い、嬉しくなる。「オギッチのよさを理解し、彼を認める人がまた一人増えた。それも学園外で」という思いで。

人のことを客観視し、的確に言い当てるオギッチ。それなのに自分の言葉でそれを説明するどころか、説明できない。説明できないよりむしろ誤解されるほどの言葉不足。こんな荻原だからこそ、台本を読む仕事が彼に向いているのではと考えた勘がはずれではなかったという思いと、もしかしたら大化けするかもしれないという思いと、オギッチのそのままを正当に評価して下さる方々の間で、彼の心が今までになく穏やかで、居心地のよさそうに感じられたことがとても嬉しかった。

感激どころか、大感激したオギッチの舞台。観劇してからが一番辛かった。なにしろオギッチが私たちの知っているオギッチではなく、“舞台俳優荻原裕介”になっていることを言いたくて。でも、まだ観劇していない学生や先生たちに私の一方的な意見を押し付けるわけにいかない。まして言ってしまったら彼らの楽しみがなくなる。驚かしてもあげたい。そんな思いとで、自分で自分の口に「YKK、YKK!」と呪文のように唱え、オギッチの初舞台に触れないようにしていた。

うきうき気分が継続する中、タイへ。
海軍士官学校の真っ白なユニフォームのような制服に、ナレースワン国立大学の色。黄色、赤、緑の三色カラーの線で縁取りされたシースルーの真っ白なガウン。卒業生は3日間のリハーサルをし、前日から食べ物も水分も加減しながら臨んだという卒業式。その中に上田学園の卒業生の金谷がいた。タイ語で卒業する外国人学生第一号としてタイの王女様から直接、卒業証書が授与されたのだ。

誇らしい気持ちと、感謝の気持ちで胸が一杯になる。

タイ語と日本語の専門辞書のないなか、よく卒業までこぎつけたものと、金谷の努力に。無事卒業まで彼を支えて下さった教授陣や大学関係者や、彼の友人たちや知人の方々に。タイの大学へ行くことを気持ちよく許し、応援して下さった金谷の御両親、特にお父様に。胸が一杯になるなか、感謝の気持ちとねぎらいの気持ちをこめて、心から頭を下げた。

今年の6月にイギリスの大学を卒業し、10月からナレースワン大学の本校で日本語教師として働き始めたシーシーが感無量の面持ちで金谷の卒業式の様子を見ている。オギッチよりはましだが、でもコミュニケーションをとるのが一番苦手な彼が、苦手だからこそ人の何十倍もの努力をしながら頑張っている。

赴任したばかりなのでまだ学生たちに慕われるところまではいかないが、新人教師として学生たちに興味津々に見られている中、「随分、先生らしくなったわね」などとからかわれながら先輩の先生たちに可愛がられ、頑張っている。そんな彼が教える授業を教室の外から眺め、上田学園に入学したての頃、テストの結果が不合格なら「留年」と言われ、急いで塾を探したが塾が見つからなかったと飛び込みで助けを求めに来た高校生に、テスト前の十日間だけ数学を教えたあの時、「教え方が上手い!」と感じたあの時の片鱗が見え、ドキドキしながらも思わず笑いがこみ上げてくるのを抑えることが出来なかった。

一生懸命先輩の先生たちのお役にたとうと頑張るシーシー。とても頼もしく思える。きっと生徒たちに慕われるいい先生になるだろうということが容易に想像が出来、嬉しい。後は、「どんなに暑くても歩いて学校へ通います」などと頑固なことは言わず、先輩の先生や偉い教授たちを“アッシー君”の代わりにしなくてもいいように自動車の運転とまでは言わない。オートバイで通いなさいとも言わない。でもせめて自転車位買って大学まで自転車通学をすることを願いながら、今まで以上に心から応援したいと思う。

中学2年生の不登校から始まって上田学園へ。そして縁がありタイの大学を卒業し就職するまでのこの十年間の努力を、卒業式の正装で、いつも以上に凛々しく逞しく見える金谷を見ながら考えていた正にその時、一番始めに教えた生徒の一人が金谷であり、最後の生徒の一人が宍戸であり、多大な影響を学生たちに与えて下さった元上田学園の先生のお一人でもあった先生が亡くなったという訃報が入ってきた。

52歳だった先生は8年前に脳腫瘍で1回目の手術を受け、6年前に2回目の手術を受け、その後入退院をくりかえしていらした。

芸大を卒業し、フルートの勉強にスイスの音大に留学してきたときに日本人学校の同僚として出会い、日本人学校の主任のお一人として生徒たちを導き、帰国後レッツ日本語教育センターの設立や、上田学園の設立をサポートしてくださり、病気が発病するまで上田学園の先生としてクラシック音楽を通して「世の中を面白く見る」ことを教えて下さった先生。先生の教え子だった卒業生たちの今を胸を張って御報告できた喜びと同時に、お世話になった学生たちをもっと見ていて頂きたかったという思いと、フルート奏者としてもまだまだ御活躍できたのにという残念な気持ちと、何とも説明できない悲しみとで胸が潰れそうになるなか、先生が大切になさっていた御親族や教え子さんやお友達に見守られ、賛美歌に送られて旅立っていかれた先生を、帰国が遅れていたタイから何とか戻りお見送りをさせて頂くことができた。

今年も色々あった。嬉しいこと悲しいこと。そんな中でも、色々な方々のお力で学生たちがここまで頑張ってこられたことを考えると、何度頭を下げても下げたりない。だからこそ頑張らなければと思う。

残り少ない上田学園の今年の授業。12月24日の大掃除の日まで学生たちはいつものように勉強を続けていくだろう。「人生をやり直ししたいので、いくらでも恥をかきます。入学させてください」と、2週間前に入学してきた35歳の元歯科技工士の新入生と一緒に。

 

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