●学園長のひとり言

平成21年11月12日
 

親力は、子離れ力

私は親ではない。だから親を批判しようとは思わないが、子供の人生は親の人生の上に築かれていく。だからこそ親は自分の人生をしっかり生きていかなければいけない。子供は自分の人生が親の人生の上に築かれていく。だからこそ親に感謝し、親の努力を無にしないよう、また自分の人生の上に自分の子供たちの人生が築かれていくことを自覚し、未来に繋がる今日という日を大切に生きていく義務が、子供にはあると信じている。

それにしても、親とは何なのだろうか。卒業生の一人が「子供を生んだからといって親とは呼べない」と言ったことがある。彼の言いたいことは、子供を生んだ。子供を育てている。だから「自分は親だ」とは言って欲しくはないということなのだろう。親は親としての「親業」があり、それを実践してはじめて親と呼ばれるのだと言いたいのだろうと想像している。

この夏、小学校3年生になる男の子の勉強を一ヶ月間毎日担当した。彼は母、妹、祖父母、そして叔父さんの6人暮らし。父親を数年前に病気でなくしていた。

「日本語を教えてください」とお母様がみえたのは、昨年のことだった。学校の授業についていけないのは、日本語が分からないからではないかというご心配からだった。

日本人ではあるが、彼の会話は確かに外国人が話す「初級レベル日本語」のように、知っている単語だけを並べただけの脈絡のない会話で、日本語の教師だから聞き分けられるような会話だった。そのため、学校の長い休み以外は週2回、1回は学園生が、1回は日本語の先生が彼の勉強をみることにして、授業を開始。授業の参考にと、彼の通う小学校のオープンクラスの日に、彼のクラスの授業を見せてもらった。

決して頭が悪いわけではなく、むしろ頭がいい彼だが頭の回転と行動と言葉が一致せず、それが原因でクラスでもなかなか自分の考えていることが表現できず、担任の教師は勿論、クラスメートにも理解されず、心がとても淋しがっていることが分った。

学校で100点をとることを応援するよりも、世の中は自分中心には回っていないこと。自分を理解してもらいたいときは、まずお友達のことが理解出来るよう努力すること。そのために、共通の約束事があることなどを含め、日常的に理解させておいたほうがいいことは勉強を通して指導し、それと同時に、どんなことがあっても、どんなときでも、「私たちはいつも君と一緒だよ」ということを心で理解して欲しいと願い、まず彼と先生との間に信頼関係を築くことを第一の目標にした。そのために、毎回必ず勉強が終わると担当教師は勿論だが、周りにいる学園生や日本語の勉強に来ている外国人の学生、時にはお客様にも協力して頂き「よく頑張りました!」と、一人ずつ彼をしっかり抱きしめ、そして皆で「気をつけてお帰りなさい!」と見送ることにした。

嬉しそうに、照れくさそうに一人一人からしっかり抱いてもらい、元気に帰っていく彼だったが、受け入れている私たちに「どうしてこうなるのだろうか?何かが違う。」という思いに度々おそわれ、彼を理解できないことが多々あった。

そんなある日、15分もじっと座っていられず、クラスの担任の先生から「書ければどんな字でもいいんです」と言われ、書き順は勿論だがなんとなくその漢字に見えればいいという指導のもとで、なんとなく書いていた漢字。それを注意すると、注意した数だけすねて勉強をしたがらなかった彼が珍しく先生の言うことを聞いて丁寧に書いた。そして、きれいに書けたことがよほど嬉しかったのだろう、そこに居合わせた上田学園の先生に自分の書いたノートを誇らしげに見せた。

「すごいね。でも、自分の名前をどうしてこんなに乱暴に書くの?自分の名前なんだからもっときれいに書かなければだめじゃない。」と、思いがけなく厳しい言葉が彼に返された。

褒められることだけを想定していた彼は、泣き出した。それも涙を一生懸命袖で拭きながら、本当に悔しそうに大粒の涙で。それを見ていた先生は、「悔し涙はうんと流しな。悔しいと思うことはいいことなんだよ。うんとうんと悔しいと思って、頑張りな!」と言葉を続けた。

日本語の学生に対しても上田学園の学生に対しても、「可哀想に」と哀れんだ途端、彼らを見下していると同じだという思いで、なるべく「可哀想」という気持ちを持たずに接するように心がけてきたつもりだったが、生まれてまだ8年しかたっていない小さな体で、彼自身が原因ではない不本意な問題と闘う彼に対し、気付かないうちに「可哀想だ!」という気持ちで接し、教えるべきことを教えていなかったのではないのか、甘やかしていたのではないのか。

12歳だろうが35歳だろうが、学生たちの問題は可哀想な問題ではなく、単にその学生の持っている「学ぶための体内時計」や、「物事を理解するための体内時計」が他の人たちの体内時計の進み具合と違うだけの「出来ない」であり、その「出来ない」は学生をしている間にじっくり時間をかけて出来るようにしたらいいだけの問題。それを忘れて、単に同情していたのではないだろうかと、彼と先生のやりとりを見ていて気付かされると同時に、学園生に対しても日本語を勉強している学生に対しても同じよう気持ちで接していたのではなかったのか。学生が起こす問題は、「可哀想な学生」という気持ちでその問題に対応していたのではなかったか等、反省させられた。

そんな反省を続けているうちに夏休みになり、「4年生になると授業が難しくなるので今までのような悠長なことは言っていられません。この夏休みは、厳しく勉強をやらせて下さい」というメールをお母様から頂戴した。そのメールを前に、彼の担当教師たちとの話し合いや打ち合わせの内容、実際の授業、「悔し涙はうんと流しな!」と厳しいエールを送って下さったではなく、贈って下さった先生の言葉と、本当に悔しそうに泣いていた彼のことを思い出し、もう彼を子供扱いにすることをやめ、彼を子供としてではなく、一人の人として対等に話し合ったほうがいいと考えた。

小学校3年生の彼には少々きつい選択かと思ったが、お母様からのメールを見せ、お母様が心から彼を心配していることや、小学校の勉強は人間として生きていくうえでとても大切な勉強であり、今しっかり勉強しておかないと4年生の勉強についていかれなくなること。漢字には書き順があり、書き順を大切にする理由は何か。勉強するときはどうして真面目に勉強しなければいけないのか。どうして嫌な勉強をしなければいけないのか。学校だけではなく、どうして上田学園でも勉強したほうがいいのか等、彼が理解出来るよう色々な方法で説明し、勉強をするのかしないかを自分で決めさせた。

一生懸命考えていた彼は、上田学園で勉強することを自分で選択した。

15分もじっと座っていられなかった彼がその日から一生懸命勉強するようになり、「ミラクル!」と思わず彼に拍手を送りたくなったほど、2時間の勉強がアッという間に終わってしまうようになった。

分らないことは「分らないと先生に伝える」という約束も実行し、何でも聞いてくるようになり「先生、なんでも質問していいんだね?」とか、「教えてくれてありがとう!」とかいう言葉が自然に彼の口から発せられるようになった。

ほんの数日前までは、注意されたり訂正されたりしただけで不貞腐れ、「お母さんに言いつけるもん!」とか「先生なんか嫌いだ!」等と言って横を向いたり、机の上にうつ伏せになったりしていた彼が、汚く書いた字を何回書き直させても、「先生、これでいいんですか!」とか「書き順間違っていない?」とか言いながら、一生懸命書き直す。また、彼の体内時計に合わせ、十分な時間をあげ、答が出るまで待つように心がける。すると、「居眠りでも始めたのかな?」と危惧するほど時間がかかり、心配になって思わず彼の顔を覗き込むと、そこには真剣に考え込んでいる彼がいる。そして、永遠に答えは返ってこないのではと思えるほど永い時間がかかって答える答えは、思わず「すごい!」と言ってしまうほど正確な答になって返ってくる。

夏休みの1ヵ月の授業で、彼は理解するのに時間がかかるが、考える時間さえあげ、きちんと理解出来れば本当に勉強がよく出来ることが分った。また、学校の授業でも塾の授業でも、どんなお稽古事でも、ゆっくり時間をかけて考えなければ答が出せないタイプの彼なのに、即答することを求められ、その求めに応じようとして、意味は勿論だが、何も理解出来ず混乱しているのに、とりあえずあてずっぽに答えてみる。その答えが間違っていても、彼が理解出来ていなくてもその確認は誰にもされず、反対に「そうじゃないでしょう。右手は反対の手でしょう」と言いながら、次の人に順番を回して行く、あたかも彼の義務は終わったかのように。その連続が「勉強の出来ない子」「人の話が理解できない子」というレッテルを貼られる原因になっていたのではと、想像できた。

小学校3年生の小さな頭で一生懸命考え、もう答えは出ないかもしれないと思ったころ、おもむろに顔をあげ、「先生、それは新聞の新」などと答える彼の真剣な顔に、思わず「格好いい!」と唸ってしまったあの一月。自分で考え、自分で答えを出そうとする彼の姿を見ていて、子供は確実に大人になっていく。他の生徒のテンポではなく、個々のテンポで成長しながら「人生を終えるまで」という限られた時間の中で、生きるためのすべを確実に身につけていく。だから小さい子供の成長時間を大人の都合の時間に合わせ、あせらせることはない。あせらずじっくり子供と付き合えば、大人が考える時間の中で色々なことが出来るように必ずなると、小さな彼が証明してくれた。

発達障害を危惧されたり、問題があると思われたり。本人も気に入らないことがあると、机にうつぶせになったり、椅子の上に寝転んだりしていた彼が、まるで夏目漱石の写真のように首をかしげて頬肘を付き、真剣に考えている小さな彼の横顔を見ながら、親の仕事、先生の仕事、大人の仕事はなんだろうかと、考えずにはいられなかった。

つくづく思う。子供を育てるとき、親や教師や大人がしなければいけないのは、まず社会に出ていくためのマナーを叩き込むこと。即ち、皆が生き易い社会を支える一員となるために、約束は守ること。やらなければいけないことは、どんなことがあってもやらなければいけないこと。誰とでも仲良くすること。誰にでも親切にすること等など。それと同時に、幼稚園や学校など、子供が子供の社会に踏み出し始めたら、出来る限り一人で生きていけるよう、人の話を聞き、よく考え、分らないときは「わからない」と周りにいる人間に教えを請い、そして実行する勇気や好奇心を植え付けていくこと。だからこそ、子供が困難に直面したときに親は子供の露払いをしながら子供を誘導していくのではなく、「貴方を中心に世の中は回っていない。だから自分から行動しなさい。」と、自分から「なぜ?」を解決する方法を、その子供の年齢に合わせて教えていくべきだと。それが正当なる親業であり、同時に、何歳になっても親子であることには変わりはないが、子供を一人前の社会人として社会に送り出すために、親がいかに上手に子供から卒業していくか。その卒業力と、卒業後に大人同士として対等に子供とどう付き合えるかが、親力ではないのだろうかと。

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