●学園長のひとり言 |
平成22年4月7日
ある日、一人の男の人が上田学園に入学してきました。電気の勉強をする専門学校を出たあと、水質検査の会社で3年間働き、その後家でぶらぶらと3年。そして上田学園へ。 口数がすくなく、家族の話や、過去の話しを殆どしません。入学当初は単に「おとなしい学生さん」だとしか考えていませんでした。そんな彼が本当は“人”ではなく、まして人の間でコミュニケーションをとりながら生きる“人間”でもなく人間に化けた「ゆうれい君だ!」と気付かされたのは、ドイツのフランクフルト空港でのことでした。 学園では毎年1月に授業の一環として、フランクフルトで開かれるテキスタルの展示会へ各企業の買い付け担当者をご案内するツアーの添乗員アシスタントとして出かけているのですが、その実習の最中のことでした。 そのときもいくつかのグループに別れ、イギリス、フランス、イタリアなどを経由して目的地のフランクフルトで合流するというものでした。私は彼と同じグループでイタリアのミラノ経由でフランクフルトへ。 経由地のミラノには3泊4日。その間、彼にとって初めてのヨーロッパ。初めての添乗員アシスタントの実習。商社の方々と会うのも初めて。まして、買い付け担当者が何をする人なのか、ほとんど理解してはいなかったどころか、全く分かっていなかったようです。そんな状態の中でのお客様のお世話、ただ黙々と指示されることをこなしているだけでした。おとなしい学生という枠組みされた中で、無難に。 目の前で、一対一で話しているときの彼は、背が高くスマート。紺色のスーツに同色のロングコート。ヨーロッパの中でもがっちりとして背が高いドイツ人の間にいても、背丈ではあまり見劣りしませんでした。そんな彼が飛行場の人ごみの中に入ると、目の前に居るのに、陰も形も見えなくなるのです。目の前にいる彼を何度探してキョロキョロとしたことでしょうか。そして気付いたのです、彼が幽霊だということを。 そのときの場景は今でも鮮明に覚えていますし、そのときに一瞬頭によぎったことは「彼のご先祖様は葉隠れ?忍者?」という疑問と、絶対「ゆうれい君だ!」という確信みたいな不思議な感覚でした。 それがきっかけで“ゆうれい君”としての彼の観察を始めたのですが、これが観察をすればするほど、正に見事としかいいようがないように彼は幽霊の本領を発揮し、「僕、ここに居ません!」を実践し、居ても全く存在のない見えない状態を黙々と続け、彼自身に対しても周りの人間に対しても幽霊でいることに成功しておりました。 そんな彼でしたが、私の目の中にその存在が確認出来た時の彼は、その場の中に漂うように、夢見る夢雄さんか、はたまたあのゲゲゲの鬼太郎の目玉親父が欠けたお茶碗のお風呂に気持ちよさそうに浸かっているような、そんな状態でした。 しかしそんなふわふわの彼も、上田学園に入学したことが運の尽き。好奇心旺盛な先生方に「嫌です!」と叫ぶ前に、気付いたら一枚一枚巧妙に服が脱がされていくように、本来の彼が顔を出しはじめました。それも、「毎日毎日心が死んでいくのが分った」という小学校5年生くらいの自分と、気付いたら高校を卒業するまでのことが「全く思い出せなくなっていた」という事実とともに。 色々なことがありました。注意されたり、叱られたり、激励されたりしながら、彼はまるでおたまじゃくしが足や手を生やすように、人として生きようと、恐る恐る手や足を少しずつ生やし、不慣れな動きながらも動き出しました。胎児のように、何となく「人になるのかな?」という程度のシルエットを見せながら。 動き始めたことはとてもいいことだとは思いましたが、問題の深さに「どうしたらいいのだろうか?」という思いと、これからどうなっていくのか、どの方向へ向かうのか。人としては勿論ですが、人間として生きていけるようになるのにはまだまだ時間が必要。中途半端にかかわったような気持ちがして、私は大きな責任を感じていました。 いい時も悪い時も、時間はこちらの都合に合わせてはくれません。「タイムオーバーです」とでもいうように、卒業が近づいていました。 彼自身、「ゆうれい君ではいけないんだ。」と気付き、世の中に泳ぎ出そうという気配は見せてきていましたが、それでも世の中を泳ぎ切るための泳ぎ方を習得していない現実。これで本当に世の中に出していいのだろうかと悩み、「年齢も年齢ですから、一日も早く家を出て行って欲しいんです。」と渋る親御さんに頭を下げ、明るくなり、楽しそうに授業には参加しているけれど、まだまだ「彼らしい泳ぎができないので」と、1年間の卒業延期許可を頂きました。 渋る親御さんから頂いたこの1年間。正にこの1年は私にとって彼の問題と向き合いながら、自分と向き合い、自分と闘う1年となりました。 何がどうなったのか、4年目に突入した初夏のころから、それはまるでオンボロ車が道路の穴凹に落ち込んで排気ガスを盛大に撒き散らしながら車輪を空回りさせているかのごとく、黒い煙幕をはりながら彼は同じ場所から動かなくなってしまいました。 その姿は「動かなくなった」というより、幽霊以下になろうとしているように見え、1年間卒業を延ばしたことが良かったかどうかと、自問自答する日々が続きました。 今から思うと、本当の意味で彼が自分の過去から決別し、人として人間としてこの世界で生きていくために今まで蓄積されていた悪い毒を出し、膿を出す重要な期間だったのだと分るのですが、新しい学生達の問題と相まって、その最中は彼の知らぬところで勝手に何度も何度も“挫折感”を味わい、やっていることに対する考え方は勿論ですが、問題と闘おうという気力さえも失せるような期間でもありました。 幽霊と闘うのは実体がないだけに、まるで世の中に存在しない問題に向かってエアーボクシングで挑んでいるようなそんな感じと、それからくる手ごたえのない疲れに、心が萎えていました。 日々“ゆうれい君”の言動で落ち込む私に「よかったじゃないですか、彼の本来の問題点が浮き彫りになって。」「よかったじゃないですか、問題点が表面化したのですから。後はそれを正せばいいだけのことですから。」「問題が心の奥深く沈んでいるときよりは、ましじゃないですか。」等と、先生方が色々な言葉でこの期間を乗り切れるように、誘導して下さいました。 動かない。結果を出さない。親御さんからも先生たちからも「やっぱり駄目か!」と思わずつぶやかれてしまうような学園生であっても、その上、遅々として前進していないように思えても、色々な授業を通し、色々な考えの先生方に触発され、「何があったの?」と聞きたくなるほど、ある日突然、気付くと過去からの脱皮を始め、卒業式のその日のその日まで変化を遂げ、どんな状況になっても社会で活躍している卒業生たちと同じように、「どうなることか?」と心配した“ゆうれい君”も卒業間際から変化を始めました。 “ゆうれい君”の面倒をよく見てくれた先輩で、カナダで仕事をすることになったヒロポンの壮行会と、“ゆうれい君”の卒業式が急遽予定を変更して合同で行われた当日。すこし人間の片鱗を見せ始めていた“ゆうれい君”は、先生や卒業生を前に「何故上田学園に入ったのかということを思い出してみますと、自分の居場所が欲しかっのだと思います。最近やっと外の人から見ると自分は少し変なのだということに気付きました。これからは居場所を探すのではなく、自分から居場所を作っていこうと思います。」と挨拶しました。 その言葉は私にとって彼がくれた「幸福の花束」のようでした。その花束は、彼のために心を砕き、眠っている細胞に色々な刺激や栄養を与えて下さった先生方に、綺麗なリボンで束ねなおし、感謝の気持ちと一緒に差し上げたいと思いました。 それから2週間後、ヒロポンは専門学校の友人、後輩、上田学園の学生たちに見送られて成田からバンクーバーへ発って行きました。そして、例年通り卒業後まで続いた学園の授業は、真希先生のライブを吉祥寺のライブハウスで聴いて、4月4日に終わりました。 「1年前、楽しそうにしていたのは、あれは演技でした。あの時卒業していたら、3年も生きていなかっただろうとずっと考えていました。今はそんな考え全くありません」と、“ゆうれい君”からも卒業し始めた彼の就職活動。いよいこれからです。 上田学園の“ゆうれい君”は、自分のルーツが人であることを遅まきながら気付き、今度は人間として社会の中で生きていこうと前に向かって歩き始めたのです。本当に長い一年でした。そんな彼をこれからもずっと応援していきます。見守っていきます。本当に一人でも大丈夫と思える時まで、上田学園応援団の旗を掲げて彼の後ろから、背後霊のようにそっと。 |