●学園長のひとり言

平成22年8月20日

元祖「蟻とキリギリス」

桜子ちゃん、楓(かえで)君。名前だけを見たとき「なんて可愛いお名前だろう」と思い、ご両親がきっと生まれてきてくれたことを嬉しく思い、感謝して付けたお名前だろうと想像。でも実際は離婚したばかりの23歳の母親から「自分の時間が欲しかった」とか「初めて一人で子育てをしなければならなくなり、何もかも嫌になった」とかで、死ぬことが分かっていたのに幼い二人を置き去りにし、遊びまわっていた結果、この世でたった3年と1年の短い命を終えた可哀そうな子供たちの名前だった。

何とか出来なかったのだろうか。どうしてこんな悲しい人生をこの可愛い子供たちは歩まなければならなかったのだろうかと、二人の子供たちが哀れで泣きたくなった。そして「行政はこういう若年の親を助け、子育ての重圧から開放してあげなければ」というコメントを読み、思わず「そんな単純な問題じゃない!人間としての根本的な問題、人間としてきちんと教育していないからこんな悲しいことが、後から後から続くのだ!!」と、腹が立ってこの二人の子供のために、もっと泣きたくなった。

綺麗に化粧された若いお母さんは、母親というより遊びたい盛りの女の子という印象を事件担当の府警幹部に与えたようだ。事実彼女の写真を見ると、遊びに忙しい渋谷あたりに居る女の子という感じ以外、何もないように見える。

ここ数年若い人たちの起こす事件は、親や兄妹や他人を意味もなく殺したり、子供を虐待で死なせたりと、大人になりきれないが年齢だけが成長し、その成長した年齢だけで無責任に大人のような行動をすることで起こす問題が、多発しているように思う。行政も世論もその度に何とか問題を解決しようと、色々な意見を戦わせるが、誰も根本的な問題に目を向けようとしないために、同じような悲しい事件が後を絶たないのだろう。

何とも情けない話だが「ひきこもり」70万人。そのうち30代のひきこもりが50%。引きこもった理由が「職場になじめない」とか「就職活動がうまくいかなかった」とか。小中学校時代の経験では「学校で我慢することが多かった」が55.9%とか。そしてこの問題でも行政や世論は表面的に解決しようとするため、ひきこもりをする人が後を絶たないとか。引きこもらせる環境に全くメスが入れられないうえ、引きこもり予備軍が155万人も存在するのだから引きこもる人が後を絶たないのは、当たり前なのだが。

育児放棄、子供の虐待、ひきこもりの問題、そのすべての問題の根本的原因は全部同じ根っこだと、私は見ている。

戦後、時代とともに民主主義という名目でヨーロッパやアメリカを見習って、なんでも自由にすることが許されるようになった。その考えがエスカレートするに従い、自由=自分勝手という図式に変化していき、自分勝手に動くことがまるで自由を謳歌し、自分の個性を表現しているように勘違いされるようになった。その結果、議論をし、推測し、自分なりに考えて共鳴したり反対したりすることがだんだん省略され、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」調に、「他の人もそうやっているから」と単に同調し、そのうち自分で考えたり工夫したりする「自分の頭で考えて結論を出し、それについて話し合う」ということがなくなっていったように思う。

日本経済が発展し、「貴方のご意見は結構です」と会社はイエスマンを望み、事なかれ主義が蔓延。そして、「人は平等」とういうフレーズと「友達親子」という美名の元に、親が子供に対して親としての責任を放棄する親子関係が成立。それも大切な友達だからと、諌めたり共鳴したりする友達ではなく、嫌われたら困るという一点で同調するだけの友達のような。

好きなことは嫌いなことと背中合わせであり、好きなことをみつけるために嫌いなこともしなければいけないということは全く教えず、ただただ物分りのいい親を演じ、美味しい言葉「「なんでも好きなこと見つけて、好きなことをしなさい」と言い続けた結果、子供たちは嫌いなこと苦手なことは避けるようになり、それを「当たり前のこと」と勘違いするようになった。

自由を通りこして自分勝手だけが成長し、野放し状態にされ、夫婦も親子も社会も、事が起きると相手や世間に問題を転化したり擦り付けたりと、自分に原因があるのではなく、他に原因があると自分に都合よく考え、反省などということは全くせず、相手が答えるまで一方的に相手に同調を求め、自分の好きなこと、気に入ること、やりたいことだけを「正当に主張」という名目のゴリ押しをする人間が増加。

相手はどうでもいいが自分には権利があるからと、そんな自分を認めてくれと要求。その要求が通らなかったり、思った通りの答えが返ってこなかったりすると色々な問題を起こし、世間を騒がせ、それを親と同じように擁護する世間が、無意識のうちに今まで以上にモンスターペアレンツや引きこもりや何の力もない幼子を虐待するような、そんな問題が起きやすい土壌を作ってきたように思う。

自分で自分のやったことに責任をとらないでいい生ぬるい社会からは、誰にも頼られず、何の刺激も受けられず、何の希望も湧いてこず、結果、学校で勉強する理由もわからなくなる。それを見ていた親たちは「とりあえず学校だけは出しておけば、時がくれば何とか社会に出て一人前になるだろう」と、教育の買い支えをする。

自分に非難がくることだけを恐れ、問題は何なのか全く考えず、解決する努力は勿論せず、ただただ問題の先送りをし、その問題がまるで無かったように振る舞う親や大人たち。自分では直接教育せず、子供の教育は全て下請け業者である塾に任せる。そのくせ、自分にとって満足な結果が出ないと世間や教師を非難しながら「どうしたんでしょう?小さいときは可愛いくて、優秀で、親のいうことならなんでも素直に聞く良い子でしたのに」と、子供に対しても不満を持つ。しかし、子供から嫌われたくないので、子供ときちんと向き合うことはいつまでたっても、しない。

こんな状況の中で子供が年を重ねても全く問題の解決がなされておらず結局、それが育児放棄、子供の虐待、引きこもり、殺傷事件などを引き起こす根本的な原因の一つになっていると思われる。

問題が起こってからでは、どんなにあわてても間に合わない。だからこそ一日も早く何とか手を打つ必要があると考えている。

先日、上田学園の学生が「文学を体感する」という授業の中で、「イソップ物語」即ち「伊曾保物語」を取り上げていた。

学生たちによると、イソップ物語はギリシャの寓話がラテン語から英語そしてフランス語に訳されていったそうだ。日本へはキリスト教を教える教材としてイエズス会の神父によってラテン語から訳されたのが最初のようだ。

日本の昔話と同じで、イソップ物語も、子供たちにこの物語を通して人の世の決まり即ち、社会の一員として生きていく上で、人として基本的に守らなければいけないことを教える教材だったそうだ。

しかし内容を見ると少しずつ表現が違い、例えば「蟻とキリギリス」は、イソップ物語の元祖、ギリシャでは「蟻とセミ」になっていたりと、翻訳される国の状況に合わせて少しずつお話の主人公の動物や昆虫の種類が違うそうだが、ヨーロッパと日本の一番大きい違いは、ヨーロッパではお話を通して「自己責任」を徹底的に教える。だから「夏中踊って怠けていたのだから冬もずっと踊っていなさい!」と、食べ物がなくなったキリギリスが食べ物を恵んで欲しいというのを突き放す。即ち、「自分のやったことは自分で責任をとれ」と。

しかし、相手に合わせようと努力する日本。情が深く又、助け合うのが日本人なのだと見抜いていたイエズス会の神父様は、「人が一生懸命働いている夏中歌を歌って怠けていたのだから、冬になって食べ物がなくなって困るのは当然」と自分のやったことに責任を取りなさいと追い返すということは日本人の心情として出来ないということで、食べ物を分けてあげて「これからはちゃんと働きなさい」と諌め、「めでたし、めでたし!」とお話を終わせたそうだ。

戦後、ヨーロッパやアメリカの個人主義や自由主義などを表面的に理解し、取り入れて今の日本の基礎が出来たと思うが、今からは自分の都合に合わせて「個人の自由だ!」と言い、都合が悪くなると「助けて、世の中が悪い!」と西洋と日本の間を都合よく行ったり来たりすることはやめて日本式の「蟻とキリギリス」ではなく、本家本元の「蟻とキリギリス」。即ち、自己責任の上に成り立っているヨーロッパやアメリカの本来の個人主義や自由主義を大人も子供もしっかり学び直す必要があると考えている。上田学園の学生たちにも今まで以上に意識して「自己責任」について学ばせたいと思う。

現在カナダで働いている卒業生の一人が「70万人のひきこもり」という記事に対して感想を書いてきたが、彼に言わせると「昔から日本には他を思いやり配慮するというものがあった。そのために相手の立場に立って考えたり、相手の気持ちを想像したりする力が今以上にあり、相手の言葉が足りなくても「こういうこと?」と自分なりに噛み砕いて聞き返し、少しは相手を理解することも可能だった。言葉により確実な情報が必要とするということは、それを補う想像力が欠如しているではないか。想像出来ないから、明確な言葉、情報を欲するのではないか。人の気持ちには言葉にできないものもあるならば、なおさら相手の気持ちがくみ取れる人を育てればよいと思う」と。

ひきこもりを経験しているだけに、彼のいうことは納得できる。また事実そうだと思う。だからこそ私は思う「自己責任」だけではなく、豊かな「想像力」+「自己責任」を学ばせたいと。

せっかく日本人として生まれてきた学生たち。カナダやタイで仕事をする先輩達や、仕事で年に数回海外に出張する卒業生達のように、世界相手に生きる可能性のある学生たち。「オーノー!」と外国人のような仕草をするより、例え流暢な英語であっても、意味のないことをペラペラ話す人よりも、日本人として「貴方はどう考えているか」をきっちり問われる国際社会で生きるために、上田学園では日本人本来の、他に対して思いやる気持ちと配慮をすることのでき豊かな想像力の上に、自己責任がとれる人間に育てていきたい。

弱者が犠牲になることのない社会を形成する一員として、例えば、親になることを選択した時点で、親として自分としっかり闘いながら子供や弱い者を思いやる気持ちや、幼すぎたり、話すことが苦手で言葉で説明できない人たちの気持ちに配慮出来るような。また相手の立場に立てず相手の真意もくみ取れず、自己中心的な思考で他への配慮不足からひきこもることのないよう、豊かな想像力の上で自己責任が遂行されることを願い、日本中の学生さんを教育することは出来ないが、せめて学園の生徒だけでもしっかり教育していこうと、考えている。

 

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