●学園長のひとり言

平成22年10月16日

                 仕事中だけ、鬱
常用漢字に新しい漢字196字が付け加えられたが、その中に“うつ”「鬱」という字も入っていた。

「鬱?」。書き順も大変だが、どうしてこの字を中学生までに覚えなければいけないのかと思っていたが、鬱の人が増えているということで「鬱」という字を目にすることが、多くなったせいかも知れない。

そんなことを考えていた時、「仕事中だけ、鬱」という人が増えたというのをニュースで見た。

鬱が原因で仕事が出来ない人が増えているのだそうだ。即ち「ひきこもりをする」ということのようだ。でも、そんな中の多くの人が、趣味の仲間や趣味のことでは「引きこもらない」と言うのだ。そういえば、「引きこもり70万人」という記事にも、そんなことが書いてあった。

趣味では元気に活動でしているが、仕事では鬱で会社を休職している方や、その方をカウンセリングしている先生が話しているのを聞いたが、何とも不思議な気持ちがしたのは、否めない。

「仕事中だけ、鬱」になるその原因には、いろいろあるのだろう。
テレビの中の方は、仕事のことで上司に叱られ、それが原因で出社できなくなったそうだ。上司の言葉が自分の一切を否定しているように思えたそうだ。しかし、職場と違い趣味の仲間からは「必要とされている」と言う。おまけに、「会社の社員は自分より年齢(多分)が上で・・・」と話していた。つまり、年上の人とのコミュニケーションが苦手なのだろう。

カウンセリング担当の先生の話では、今の20代から30代は社会的に未熟で、コミュニケーションをとることが不得手。その上、ストレス要因の多い社会で、そのストレスを自分の力で乗り越えられない。そんなことが原因ではないかと。しかし、本当の原因はまだ究明されていないとか。

「仕事中だけ、鬱」の問題は、各企業にとっても大きな問題で、仕事に大きな支障が出かねないと言い、その対策セミナーが大流行しているようだ。

そんな話を聞きながら、大学の入試広報担当者の「学生を集めればいい、では済まされない時代」というコメントが載っていた新聞記事を思い出していた。

その記事には、不本意入学や目的意識の欠如などから、在学4年間で10人に1人が退学するという。そんな中退学生達に対して各大学がどんな手当をしているかが、書かれていた。


上田学園に入学してくる学生の入学理由は色々ある。その中には勿論、大学を中退して上田学園に入ってきた学生も数名いる。その数名の大学中退理由も、さまざまだ。

「あまり大学へ行きたいとは思わなかった。」とか、「とりあえず大学へ行っていれば、『何とかなるかな』と思った。」とか、「大学が想像していた所と違っていた。」とか、「大学で勉強する目的意識があまりなくて『とりあえず、図書司の資格でも取っておけば何とかなるんじゃないか』等と、夢のない話ばかりしているクラスメートを見ていて、『あ、俺も同じだ!』と思って自分が嫌になった。」とか、「会社勤めをしたことのない教授たちは、机上の空論のコメントばかりで、『このまま、この学校に居ていいのかな?』と不安になった。」等と言い、部屋に引きこもったり、不登校をしたりして、最後に中退することを選択したそうだ。

そんな彼らでも上田学園を卒業すると、自分で自分の人生を選択し始め、ある者は社会人になることを選択。ある者は専門学校や大学進学を選択し、そのまま大学院へ進んでいく者もいる。

そんな上田学園の現実と、コミュニケーション能力に問題があるのではと言われる「仕事中だけ、鬱」の方たちの話を聞いていて、ふっと気づいたことがある。

色々な理由で上田学園に入ってきた学生達。彼らも「仕事中だけ、鬱」とかいう人たちと同じように、コミュニケーション能力が大きな問題であることは、事実だ。しかし学園生を通して知ったことは、コミュニケーションをとるのが“苦手な人”と“下手な人”の二通りがあり、今問題になっている人たちは、 コミュニケーションが“下手な人”ではないだろうかと。

つまり、コミュニケーション力がないというと、人と話すのが苦手で静かな人を想像するが、今問題になっている人達は、自分の好きなことでは鬱にもならないし、外へも出て行くし、自分の意見をしっかり言う。コミュニケーションをとることが苦手な人より、下手な人の方が断然増えた結果、「仕事中だけ、鬱」の人たちのようなタイプのひきこもりが多くなったのではないだろうか。

“苦手”と“下手”の問題点には共通の部分はあるが、全く違う部分もある。それを「コミュニケーションの問題」とひとくくりにして問題を解決しようとすることが、問題解決の糸口が見えてこない原因になっているのではないだろうか。

人と話すこと自体が苦手な人は、静かで黙っている人か、距離を置いて遠くから人を眺めているタイプ。この手の人は、話したくなくても、仕方がなくでも、いやいやでも、人に話しかけられれば、必要最低限の情報は提供する。即ち、返事だけはして、最低限のコミュニケーションはとる人たちだ。

最低限だろうがなんだろうが情報をくれれば、もらった人間がその想像力でコミュニケーションを続けていけるし、必要な交流が出来、もっと発展させることも可能になる。

人と話すのが“下手な人”は、話すのが下手なだけで、苦手ではない。むしろおしゃべりな人が多いように思う。それも、“話すのが下手な人”は、主語・述語がメチャメチャで、「何を言っているか分からない人」というイメージがあるが、現代の“話すことが下手な人”は、普通によく話しているのでコミュニケーション力があると誤解されているのではないだろうか。しかし、自分の知らないこと、出来ないことで答えを求められたり、必要とされると“下手”から“苦手”に移行するか、ちょっと器用な人間は調子よく相手の言葉に合わせ、一見自分の意見を言ったようにして誤魔化して、その場だけをやりすすごすことで「一件落着!」としてしまうように思う。

周りを無視し、自分の興味のあることを自分勝手に話したりやったりする人たちは、今の言葉で言えばKY。即ち空気が読めない。つまり、想像力の乏しい人たちだ。

人と話すのが“苦手な人”は、人と話す訓練時間が極端に少なかった結果、他の人が何を考えているか、何を欲しているかが想像出来ても、それをどう行動に移していいのか、自分の考えをどう表現していいのかが、分からないだけだろう。その力が育たなかっただけだろう。

話すのが“下手な人”は、自分の興味のあることだけをしゃべり、自分のしゃべったことに興味のない人たちからは浮いていくが、幸か不幸か、話すのが下手な人間が多い中、同じように何となく周りから浮いているような人達でグループを作る。そして、仲間にしか通じない言葉だけで生活をする。部外者がいない生活の中では他を思いやったり、他との距離を調整したりすることに、何の工夫の必要性もない。想像力を駆使する必要もない。ますます想像力が育たない。

コミュニュケーションをとる手段。即ち、自分を表現する方法は、決して言葉だけではない。態度、声のトーン、目の表情、洋服、化粧、持ち物、ヘアスタイル、生き方など等、色々なものがある。しかし、どんな手段で他とコミュニケートするにしても、その根本に他を思いやる気持ちがなければならないだろう。その思いやる気持ちは、卒業生のヒロポンではないが、想像力に関係してくるだろう。

想像力があれば例えば、「上司に叱れた。」「先生に注意された。」と、いちいち腹を立てたり、必要以上に反応して、必要以上に自分を追いつめていくようなこともしないだろう。むしろ「なぜ?」「どうして?」とその理由を色々なことから想像し、解決していこうとするだろう。

「仕事中だけ、鬱」。その言葉に違和感を覚えるが、「勉強だけが、鬱」もいれば、「家族だけが、鬱」、「同年輩だけが、鬱」等と、場面や状態で鬱になる人間はますます増えていくだろう。

上田学園では、「一般社会は、同じ年齢や同じ考えの人では構成されていない」と考え、また、学園で起こるすべてのことは「授業」と考え、年齢も学歴も学力も経歴も全く違う者同士が同じ机を囲んで勉強するシステムにしてある。

「分からない」、「知らない」、「理解できない」等には、年齢制限も、学歴も学力も経歴も関係ない。分かる者、理解できる者が、お互いに教え合い、助け合い、意見を交換する。

13歳の意見も一つの立派な意見。例え70歳の人でも13歳の意見に耳を傾けるべきだし、反対に「そんな古い考えの人の意見なんか、聞きたくない」と拒否するのは簡単だが、拒否をするには、拒否をするだけの理由があってしかるべきだ。単なる「古いから」は、拒否する理由にはならない。

年齢を異にする場合、往々にして時代的な差が原因で、話の背景が分からないかもしれない。それなら、調べて理解できるように努力し、そして自分の意見をきちんと、言う。拒否するのは、それからだ。それが、社会だ。

上田学園の先生をお願いする場合も、年齢制限、学歴、経歴は全く問わず、生き方や考え方が素敵な方に先生をお願いしている。事実、現役高校生から80歳以上の声優さんまでも先生としてお願いしていたし、今でも同じ考えで先生をお願いしている。

学びの場は学校の中だけではない。バスの中で隣り合った人から何かを感じたら、もう学んでいることだ。学びたいと思ったところが、学びの場。だからこそ、世界中が「君たちの学校」だと言い続けている。

上田学園の入学試験は、「上田学園に入りたい」と、自分の意思で選択することが、入学試験。

入学を許可されると、自由を選択したお祝いとして学園から誰にでも贈られる拒否できない上田学園生としての“義務”。即ち、人生を終えるとき、「俺は一生懸命生きたぜ!満足だったぜ!!」と言えるようになるために。人と比較するのではなく、自分の昨日と比較し、自分のテンポで前に進んでいく努力をする。その義務の中で、学生達は自分の頭で考え、問題解決の方法をみにつけていくようになる。

卒業生にも必ず言う。
叱られること注意されることを、「しっかり感謝して聞きなさい」と。注意されたり叱られたりしたことが悔しかったり理不尽だと思えたら、感謝とともに「自分ならこういう言い方はしない」とか「この叱り方の真似をさせてもうらおう」とか、もう一つ二つをプラスして考えなさいと。それが出来たら、注意されたり叱られたことが、大きな意味を持つことになると。

卒業生から「上司から叱られました」とか「注意された」と聞くと、「それだけ、期待されるようになったか」と、思わず拍手を送りたくなる「おめでとう!」と言いながら。

若い間はたくさん叱られ、たくさん注意される特権があるのだから、その特権がある間は、一生懸命努力し、一生懸命叱られて欲しいと願っている。そして、いい意味で「転んでもただで起きない人間になりなさい」と、言い続けている。

「仕事中だけ、鬱」の問題で改めて感じたことは、「上田学園の考え方は、間違っていない」と。だからどんなに弱音を吐かれても、在学中にたくさん失敗させ、その失敗からどう生還するかを、授業を通してたくさん体験させたいと。そして、他に興味を持ち、自分が大切だからこそ他をもっと大切にする。他をもっと思いやる。それが当たり前になるような、想像力豊かな学生に育って欲しいと。役に立たないプライドは捨てて、生きることにもっと貪欲になり、「出来ないから、しない」ではなく、「できるけれども、しない」と言える人間に育って欲しいと、心から願っている。

 

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