●学園長のひとり言

平成22年10月25日(月)

自分の存在価値

「友達の友達は、皆友達だ!!」そんな言葉が流行ったことがあったが、上田学園生を見ていると、時々この言葉を懐かしく思い出すことがある。そして、大きくため息をつく「そうなるといいなあ〜」と。

学園外で起こす学生達の問題に直面すると、社会で生きていくということは「何だろう?」と考える。同時に、学生達が社会で生きていく上で自分の存在価値をどうアピールしていくのだろうかということも、度々考えさせられる。そんなときフッと思い出す言葉が「誰にも必要とされていないんです」という言葉だ。それも、不登校生や引きこもりをした学生達からよく聞く言葉だ。その言葉を聞くたびに、「え?」と思い、その言葉を発する学生達を見、違和感を覚えてしまう。そして問いたくなる「君は、人から必要とされる人間になる努力をしているのか?」と。

存在価値とは、間接的にも直接的にも他から必要とされることだろう。ここで言う「必要とされること」とは、決して何かをして欲しいと言われることだけではないはずだ。何もせず、そこに居てくれるだけで「いい」と思われる存在も、存在価値なのだ。

「誰からも必要とされないから」と、何もしない人に「社会から必要だと思われる人間になれば」と言うと、「人が少ないから無理です」とか「大学を出ていないから、無理です」とか、「資格がないから、無理です」とか、「勉強が出来ない」「英語が出来ない」「漢字が書けない」「人と話すのが苦手」など、必要とされない、またはされるようになるのには時間がかかって容易ではないと思える条件を並べ立て、必要とされないことを正当化しようと躍起になる。そんな学生達を見ながら思い出す言葉が「友達の友達は、皆友達だ!」という言葉だ。

一人から必要とされたら、その友達からも必要とされ、そのまた友達からも必要とされ、気づいたらいつの間にか友達の輪ができているのが、人間社会だと思うのだが。

学生達が考える社会とは、“会社”をイメージにしているようだ。しかし、子供には子供の社会があり、学生には学生の社会が存在し、それの延長の先に学生が考える大人の社会、会社の社会が存在しているという当たり前なことを、誰も気づかせていない。あまりにも当たり前すぎて気づかせていないことが、最終的に職場を拒絶したり社会を拒絶し、果ては大きな社会問題を起こす原因や、落とし穴になっているように思うのだが。

市民の“幸せ度”で国を動かしているブータンの人たちは、まだまだ貧しく助け合わなければ生きていけないこともあるだろうが、自分の幸せも人の幸せも「一緒」という考えで生活をしているそうだ。そのために、皆で助け合うことが普通のことで、それを何気なくやっているという。そんな彼らの助け合う姿は、一昔前の日本のような懐かしささえ感じられる。

今の日本人の中に「自分の幸せも人の幸せも、一緒」と考える大人が、どのくらい存在しているのだろうか。それも、特別なことではなく当たり前のこととして。

現代は、0点か100点満点。即ち合格か不合格かの受験を中心にして子供の生活が動いている。また家庭教育の指導者である親は、20年先、30年先を想定したものではなく、親の過去の経験値や体験値を元に、子供の将来が幸福になるようにと願いながらも、今しか通用しない考えで子供たちを誘導していく。それも、時代を超越した「思いやり」とか、「優しさ」とか、家庭でまず学ぶべき人間としての基礎教育を抜きにして。

教育現場では、未だに受験を有利にするためだけに授業の一環として、「ボランティアをする」を授業として取り入れている。それも、実際はボランティアをさせてくれる場所を、ボランティアの気持ちで提供されていることにも気づかず。

上田学園の学生だけではない。時代に関係なく、他人に全く興味のない人間はたくさんいただろう。自分のことだけを考える人間もたくさんいただろう。ただ、自分の周りをふっと見回すと、現代のほうがその数が多いように思う。

またボランティをさせて奉仕活動精神を育てているつもりで、本当はボランティア精神を損なわせていることにも、気づいていないように思うのだが。なにしろ、人のために動くということは、人に興味のない人間には出来ないことだ。
人間に興味をもたせるために、その手段としてボランティア活動を取り入れるのはいいが、それを点数にして「受験に有利になるから」と、それをさせることで奉仕精神が育たない原因のように思われるのだが。

こんな環境の中で成長してきた多くの若者たち。内申書に「点数がつくから」とか、「単位がとれるから」という理由以外、なかなかボランティアを自然にやることに慣れてはいないし、興味も持っていないだろう。だから、自分の周りの人が困っていても気づきもしないのは、当然といえば当然なのだ。

周りにもっともっと興味を持って欲しい。他人にもっともっと興味を持って欲しい。自分が幸せになりたいと思うように、自分の周りの人たちも幸せになりたがっていることを、意識して欲しい。自覚して欲しい。人の幸福だけを考えて欲しいとは思わないが、人間社会は、他人の存在があって自分の存在も成り立っていることを、もっと自覚して欲しい。気づいて欲しい。

子供の社会。友達の社会。どの社会でも責任が発生し、その責任を追及していく中で、人から頼られ、信頼され、自分の存在価値が生まれてくる。その根本には、自分が幸福になりたいと思う気持ちが他人にあることを認め、人の幸福を喜べる人間。一つ何か頼まれたら、二つ、三つオマケをつけて「やらせて頂く」という姿勢と、その気配り。それがピンポンのように人の間を行き来することにより、人間として社会で生きる存在価値が発生し、その必要性が、計算外に発揮されていくのだと思う。

上田学園の学生には、人間社会で、自分の存在価値が普通のこととして発揮できる人になって欲しいと思う。そのために、毎日学園内で起こるどんな小さな出来事にも、喜んで動ける人間になって欲しいと、願っている。

 

 

 

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