●学園長のひとり言

平成22年11月12日(金)

君は愛されるために生まれてきた

君は愛されるために生まれてきた」
日本語の聴解授業で使うCDのタイトルだが、こんな言葉を何人の子供たちが親から言われて育てられたのだろうか。フッとそんなことを思い、改めて
CDに聴き入った。

愛には色々な種類の愛がある。男女の愛。親子の愛。夫婦の愛等。
愛のスタートは様々だ。しかし、愛を継続させるのには、確固たる信頼関係が
不可欠だろう。

誰かを愛するということは、素敵なことだ。
学園生にも好きな人や愛する人が出来たと聞くと、嬉しくなる。お年頃になった卒業生たちの婚約・結婚報告が入り招待状が届くようになり、その度に暖かい気持ちに包まれ、踊り出したくなる。そして報告をくれた彼らには、彼らの子供たちに向かって「君は、僕たちが心から生まれてくれるのを待ち望んだ子供だよ。君は、僕たちや皆から愛されるために生まれてきたんだよ。生まれて来てくれて、『ありがとう!』」と言って子供達に感謝し、慈しみながら育てて欲しいと思う。

君は愛されるために生まれてきた。
小さいときは親や祖父母から。幼稚園や学校に行き出すと、お友達や先生からも。そして社会に出ると、会社の関係者から。お年頃になり結婚が決まると、義理の親や兄妹や親戚から。年齢とともに愛してくれる人の輪が増え、同時に愛する人も増えてくる。勿論、愛の形は変わっていくが。

漢字学者の白川静先生の辞書によると、愛とは二つ以上の文字を意味で組み合わせて新しい一つの漢字にした会意文字で、後ろを顧みてたたずむ人の形である字と、その字の胸のあたりに、心臓の形である心を加えた形で、立ち去ろうとして後ろに心がひかれる人の姿であり、その心情を愛といい、「いつくしむ」の意味となったようだ。それが国語では「かなし」とよみ、後ろの人に心を残す、心にかかることをいい、それが愛情の意味となったそうだ。

愛=「いつくしむ」という意味が一番似合うのは、親子の愛だろう。慈しむ。即ち、可愛がって、大事にする。素敵な、言葉だ。が、これが曲者なような気がする。何しろ、可愛がるは何を基準にして可愛がるのか。大事にするとは、何を基準に大事にするのか。その基準を少し間違えただけで、可愛がるは、甘やかしになり、大事にするは、過保護になりかねないからだ。

可愛がるも、大事にするも、される側ではなく、する側の立場によってその基準が変わってくる。その基準には、何が正しいか、何が間違いかは明確に言えない。例え間違いであっても「良かれ!」と思ってやっている人達のことを考えると、何とも複雑な気持ちになる。やっかいなことに、良い/悪いの境界線を超えるのは簡単なようだ。愛情をかけすぎて気づかないうちに良い境界線からはみ出して悪いラインに入ってしまう。厄介なことにそれに気付くのは、子供達にその結果が顕著に出てしまってからだ。

どの親も「一生懸命育てました」とおっしゃる。事実そうなのだろう。しかし、思いがけない結果として子供の問題が浮上して来、戸惑い、悲しみ、必要以上に心を痛める結果になっているのが、現実だ。

過ぎてしまったことを、なんだかんだと言っても始まらない。問題が起こったら、感情ではなく理性で問題にぶつかるといいと思う。そして、もう一度子供達が生まれてきたときどんなに嬉しかった。壊れるのではないかと心配しながらそっと抱き上げたときの何とも形容しがたい“やわらかさ”と“愛しさ”を思いだし、改めて言ってあげて欲しい「君たちは、愛されるために生まれて来たんだよ」と。その一言で子供達は、いつの日か親の苦労を理解し、親の厳しさに感謝し、親と同じように子供達を慈しみながら育てていくことだろう。

CDのタイトルだけではなく心から「君は、ただ愛されるために生まれて来たんだよ。僕ら夫婦を選んで生まれて来てくれて、『ありがとう!!』」。そんな言葉と一緒に、愛される連鎖で、他を愛する優しい気持ちに包まれた日本が育っていくことを願っている。

 

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