●学園長コラム

平成24年02月07日(火曜日)

大学の『秋入学』に思う

 

「東大秋入学全面移行を提言=学内検討会が中間報告> 東京大学(浜田純一学長) の学内検討会が、学部入学を秋に全面移行すべきだとの中間報告をまとめたことが18 日、分かった。

こんな記事が1月の新聞に出ていた。それを受けて他の大学でも学部入学を全面的に秋に移行するべく、検討会を始めているようだ。

この記事を読みながら、何も考えずに隣がやっていることをコピーしても仕方がないし、問題が解決されないのにと考えながら、ふっとある方の言葉を思い出していた。それは1月に武蔵野法人会の新年会で講演をなさった、たった50名の社員で衛星搭載用機器のほか、望遠鏡・各種測定器など光学機器の設計・製造で世界的に有名な三鷹光器(株)の社長の言葉だ。

社長は「よく見て、そしてよく見て、そして自分の手で解決する」というようなことをおっしゃっていた。その言葉を私は「足元を見なさい。よく足元をみて、自分の足元をよく観察し、自分の手で色々工夫をして解決していきなさい。人から教えられた知識ではない自分の頭をつかって」という意味だと解釈した。即ち、考えるということは教えられることではない。自分で自分の手を動かしながら、自分の問題をしっかり見て、そこから自分の考えをしっかり生み出していきなさいという意味だと。

秋入学問題は、日本人の学生数が減っているので、海外からの留学生をあてにしてのことのようだ。

海外から来る留学生にとって秋入学の方が時間のロスがなく、春入学より日本に留学しやすいうえ、海外では秋学期入学が標準なので国際化に対応できる。また、交換留学が行いやすくなり、留学生の増加が期待できる。海外の大学との研究や教育の協力関係も結びやすくなる。おまけに日本人の学生にとっては春に高校を卒業し、それから大学に入るまでの半年間をイギリスで定着している制度。主に海外留学やボランティア活動などを通して社会的見聞を広める期間に出来る。そのうえ、体調を崩しやすい冬受験よりも、よい状態で受験に臨める。おまけに受験に失敗した場合、浪人期間を半年短縮できるなど等。
就職試験などの問題が片付けば、秋入学はとても理にかなっているというのだ。

私は「国際人」とか、「国際的」とか「留学生」とか「グローバル」とか、「海外」という言葉が出るたびに考えさせられてしまう。それは、13年間海外生活をしたという経験があるからか。今でも最低年に1・2回は仕事で海外に行くからか。30数年前から日本語教師として国籍、年齢、性別、職種を全く異にする外国人に毎日接触しているせいなのか。「国際」とか「留学」とか「海外」とかいう言葉は、言葉にしなくても毎日の生活にあふれているせいなのか。その言葉だけにスポットを当てて論争する教育には「ちょっと待った!!」と言いたくなるのだ。

「秋学期入学」を提案した担当者の皆さんは本当に春入学を止めて秋入学に移行するだけで、留学生が沢山来ると信じているのだろうか。秋入学になれば、交換留学が活発になると信じているのだろうか。研究や教育の協力関係もスムースに行くと信じているのだろうか。春から秋に移行するだけで、現在大学が抱えている問題が解決すると本気で考えているのだろうか。三鷹光器の社長ではないが、足元をよく見て、よく見て、自分の頭で考えて欲しいと、思わず大声で言いたくなるのだ。

とってつけたような、その場だけを取り繕うような問題解決方法ではなく、根本的に問題を解決しなければダメだと考えている。その解決方法は本当に簡単なことだ。ただ大学の質をあげればいいだけのことだ。

大学の質をあげるために最初にしなければいけないことは、入学時期をずらす対策ではなく、まずは将来のある若者たちを教育することを生業にしている教授たち自らが、日本人としての誇りが持てるようになることだ。そのために、国際人とは何かをしっかり理解し、本当の意味で教授自らが国際人になることだ。大学関係者自らが、大学は何をするところなのか。何故自分は大学教授なのかをしっかり再考し、大学の質をあげることだ。それこそが一番重要であり、手をつけなければいけないことだと思うのだが。

現在のように、根本的な問題を解決せず表面的に春入学を秋入学に移行するという何とも単純な発想では留学生も集まらず、すべての計画が単なる「机上の空論」の夢物語で終わってしまうと思うのは、私だけだろうか。

日本語の教え子たちである留学生や企業で研究している外国人研究者と話をすると、必ず出てくるのが「日本の大学は、自分達の国の高校レベルの知識しか教えないのはどうしてですか」という質問だ。高校レベルの知識を教える日本の大学の授業は、全く面白くないし、魅力もないと言うのだ。おまけに勉強する気も、学ぶ気持もない学生達と一緒にいること自体、苦痛なだけだと言うのだ。

海外にいる外国人の学生達と話をしても、日本からの留学生を通して知る日本の大学生レベルの低さに、文化面では絶対的な興味を持っていても、学問をする場としては、将来のことを真剣に考えれば考えるほどメリットが見いだせず、結果日本への留学ではなく、他の国への留学を考えてしまうと言うのだ。

事実、6年ちょっと住んだスイスの大学生の勉強の仕方にはものすごいものがあり、圧倒されていたが、彼らに言わせれば、それだから大学生なのだと言うのだ。大学で勉強するということは、そういうことだと言うのだ。

イギリスの大学では、答えがまだ出ていないことを研究する場が大学。そのために教授と学生が丁々発止論争する。それが授業だというのだ。結論が出ていないからこそ、大学の授業としてやるべきであり、やる意義があるのだと。

教授と学生が自分たちの知識や研究成果を基に論争し、授業を進めていく。それが大学の授業。だから日本人の学生のように「数学は嫌いだから、とりあえず文科系かな?」と言って学部を決めるようなことは、「絶対ありえない」と。

春入学。秋入学。どちらにしてもまず、表面的に海外と同調するのではなく、自分達の足元をしっかり見つめ直し、何故今の問題が起こっているのか。英語が話せれば国際人なのか。それならばイギリス人やアメリカ人など、英語圏の人間は全員国際人になれているのか。秋入学を実施することで、春卒業した日本の高校生が大学の授業が始まるまでの半年間を、留学したり、ボランティアをすることで、社会的見聞が広められるのか。

また、秋入学の国の大学には秋入学というだけで世界中から留学生が押し寄せているのか。研究や教育の協力もうまくいっているのか。それらをきちんと検証し、体調の管理もできないような18歳を育てるのではなく、どんな環境になってもどんな条件下にあっても自分のことは自分で管理できる人間を育てると同時に、他の国より入学期がずれていようとも、「日本で勉強したい」、「日本で研究したい」、「あの教授の話を聞いてみたい」と言われるような大学にしなければいけないと。その方が、世界中から学生を集めるという計画も最短で達成できると。だからこそ三鷹光器の社長のように、自分の目で「見て、見て、見て、よく見て。」そして自分の手で解決していって欲しいと願うのだ。

日本語教師としても言わせてもらえば、大学で勉強するまでに半年のずれがあるということは、留学生にとってはありがたいことだと思う。なぜならば、慣れない異国で、慣れない文化の中でアパートをみつけたり、生活の仕方を学んだり、大学の授業についていくための語学力即ち、アカデミックな語学力を身に付けるための時間などに当てることが出来、その半年間は重要であり、意義ある時間になると思うからだ。

留学生のためを本気に考えているのであれば、大学側はこの期間を使って日本の習慣や日本人の考え方、日本語力アップ、授業の受け方など等。大学生活をスムースにするためのサポートを、今以上に充実させることを考えた方がずっと留学生のためになると思うのだが。

よその国を理解するときに日本のフィルターを通すと、その国で考えられている趣旨と全く違う視点で理解してしまうということが、今までも度々あった。しかし、情報が簡単に集められるようになった現代でも、昔から言われているように「日本の常識、世界の非常識」をしてしまうことは、残念だがどうしようもないことなのだろう。

発音も、時には意味まで全く違うので、外国人にとって日本語になった外来語が一番難しく「日本語の勉強で一番大変です」と言われてしまうのだが、日常的な会話や文章に難しい外来語が氾濫し続けている日本。「国際的な子供を育てる」という名目で、日本人しかいないのに英語などの外国語で教育する幼稚園などが増えているという日本。しかし、現実の日本は従来とあまり変わらず、表面的によその国を理解しているだけ。今こそ、昔の人達を見習い、あらゆる問題は一度しっかり自分達の中で咀嚼し、日本仕様に調整し直す必要があるのではと思う。

改めて思う。日本人としての誇りがしっかり持てる教育の重要性と、大きな問題になればなるほど、自分の足元に目をやり、考え、答えを見つけることの出来る教育をしていかなければと。


上田学園 学園長  
上田早苗



バックナンバーはこちらからどうぞ