1949(昭和24)年、初代国鉄総裁下山定則は7月5日朝、日本橋三越での目撃を最後に行方不明となる。
翌6日0時25分、足立区五反野南町を通っている常磐線と東武電鉄の交差点ガード下、常磐線線路上でバラバラ死体となった総裁が発見される。 警察は他殺と自殺の両面で捜査を進めた。



警察に解剖依頼を受けた東大の古畑博士と慶大の中館博士の間において、バラバラ死体の解剖結果をめぐり論争が繰り広げられた。新聞社においても、毎日新聞は自殺説、朝日新聞は他殺説を主張し、互いの新聞紙上で論争をくり広げた。しかし警察の大規模な捜査にもかかわらず、決定的な証拠が出てこず、事件の真相は迷宮入りとなり、今日に至る。

 

 


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