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H15. 7.30

命の大切さ

何故人を殺してはいけないかという話で、命の大切さという話をよく聞く。だけど私は、人を殺してはいけないというルールを考えるとき、命の大切さを考えることは必ずしも必要ではないような気がする。

命という言葉はどこか大袈裟すぎるように、私には聞こえてしまう。私は今まで命が大切かどうかなんて真面目に考えたことは一度も無いが、それでも人殺しを何故かしたことがない。なぜ私は人殺しをした事がないのか。

「当たり前じゃないか。それが当然なんだ。それでいいんだ」という声が聞こえてきそうだけど、私はそういう風に考えたくない。私は悲惨な体験をしたことが無いのでこのように感じてしまうのかもしれない。けれど、いずれにせよ「それは当たり前のことです」という風に意見にピリオドを打つのは好きじゃない。

私は親のことを恨んだことも、友達を恨んだこともあるが、それでも殺したりしたことは無い。やろうと思えば何だって凶器になるのではないか。包丁だって台所にあるし、自動車の運転も出来る。

ただ、単純に考えて「人殺しOK」の社会より「人殺し禁止」の社会のほうが住みやすそうだ。あるいは「みんなが人殺しOKと思っている社会」より「みんなが人殺しは悪いことだと思ってる社会」のほうが住みやすそうだ。

友達と遊んで楽しかった。また来週遊びたい。「また来週遊ぼうね!」と約束する。また遊ぶためには、とりあえず生きててもらわないと困る。「人殺し禁止」の社会のほう「OK」の社会よりも、その友達と再び遊べる可能性は高そうだ。人殺しを禁止しても死ぬときは死ぬだろうが、それでも生きている可能性が高そうだ。

生きているためには命が必要なのかもしれないが、別にそのことを理解していなくても相手が死んでしまうと遊べないのは理解できる。また遊びたいなあ、また会いたいなあと考えているとき、別に命がどうしたなんてわざわざ考えないような気がする。

お父さんが「ちょっとタバコ買いに行ってくる」と出て行って、生きて帰ってくるかどうか心配しなければいけないような社会は、そうでない社会より住みにくそうだ。 大好きな恋人と明日再び会えるかどうか、一度別れた後に会える確立が1%の社会より10%の社会、それより50%の社会、それより99%の社会のほうが、幸せになれるような気がする。

私は命がどんなものか全然説明できないが、身近にいる誰かが未来も同じように生きていて欲しいかどうか考えることが出来る。私が誰かに生きていて欲しいと望むとき、人殺しを禁止する社会、あるいは人殺しを嫌っている社会に住んでいたほうが私の欲求は満たされそうだと思う。

命が特別に素晴らしいものだと、私は考えたことが無い。ただ私は、この前友達と適当に遊んで楽しかったので、また遊びたいと思う。そんなとき、人が死ぬような危険性は邪魔だ。人殺しを禁止したり、みなが嫌ったりすれば、そういう危険の原因の一つを抑え込むことができる。

遊んで楽しかったことと、命とは重大な関連があるのかもしれないが、死んでしまうと遊べないことを理解するのに、命との関連は理解する必要は無いのではないか。たとえ関連が実際にあったとしても。

だから僕は、命の大切さというセリフを聞くとき、何となく変だと思ってしまうのだ。


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