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H15. 9. 30

読書に関する小高の雑感

自分はあまり読書は好きではない。でも活字が大嫌いというわけではない。例えば厚い本を時間をかけて読むという事を今までに何度かしたことがある。小学校のときに「指輪物語」を読んだり、中学生の時に「JFK」を読んだり、高校生の時にドストエフスキーの「白痴」を読んだり。それは退屈だったけれど、どうしても我慢ができないという程でもない。時々面白いことや役に立つこと、感動的なことも書いてある。ただやればやるほどに、こんなに読書に時間を使ってしまってよかったのか? などと考えたりもする。

小学生の頃は割とよく本を読んだろうか。学校の推薦図書に興味を示したことは皆無で、もっぱら自分の好みで本を選んでいた。思い出に残っているのは「コンチキ号漂流記」とか、植村直己とか、ミヒャエル・エンデとか。夏目漱石はいまだに「こころ」以外は面白いと思えない。「我輩は猫である」はどうも愚痴っぽくて好きになれない。なぜみんな、あんな愚痴っぽい語り口に嫌気がささないのだろうか。

読書が自分の人生に役に立っているという実感はあまりないのだけれど、きっとこうやって文章を書いたりできるのは今までそこそこ読書してきたお陰なのだろう。確かに読書が大嫌いだという友人と話していた時、話が通じづらい、相手を理解しづらいという感じはあった。しかしその人は会話で他人を楽しませる才能があって、私はそれを簡単に真似できなかったし、私の考えの間違いを鋭く言い当てたことも何度もあった。だから読書をあまりしない人が頭が悪いとは私は思わない。とはいえ単語を沢山知っていたり、言い回しを沢山知っていたりしたほうが会話を通してコミュニケーションは取り易いだろう。

いつだかテレビで読書好きの女性タレントが、「好きな本を友達に薦めたんですけど、本読むの嫌いっていって読んでくれないんです。そういうのすごく悲しくって」みたいなことを言っていて別のタレントが「わかるわかるぅ!」と答えて盛り上がっていた。だけど無理に薦められる方だって大変だろうと私は思ってしまう。さっき書いた友人は読書が嫌いだと年中言っていたが、さくらももこの「もものかんづめ」だけは好きでよく読むと言っていた。「活字はだいっきらいなんだけど、これだけは好きなんだよねぇ」、この話を聞いてこの人は読書が嫌いなのではなくて、読みたくないテーマやストーリーを無理に薦められるのを嫌がっていたという事なのではないかと思った。それをこの友人は自分でも自分を読書嫌いだと思っているし、彼の家族もそう思っている。本人はそれを悲しんだり自己嫌悪を感じたりしていた。読書が嫌いなわけじゃないんじゃない? と指摘したけれど、なんとなく受け流されてしまった。僕も熱心に追求はしなかった。追求すべきだったかもしれないな。

上田学園の2ヶ月の夏休みもそろそろ終わるが、夏休みの宿題のひとつに「読書計画を立てて読書をする」というのがある。現代史が分からないというコンプレックスのある私は「現代史に関する本を最低3冊読む」というのを計画に含めて、「そうだったのか現代史2」を読んでいるのだけれど、どうも集中力が続かない。理由は多分よく分からないから。よくわからないなら誰かに質問すべきだ。だけどバカにされたり笑われるのが怖いし、質問した相手が苛立つのが嫌なのでなかなか質問する気がおきない。自分で言うのもなんだが、私は物分りがもの凄く悪い。というか遅い。あんまり同じところを質問し続けるとよっぽど立派な人でないかぎり苛々するだろう。もともと関心が無いから気合が入りづらいというのもある。正直3冊は読めそうに無い。1冊でも怪しい感じだが、開き直るのもちょっと嫌だ。時間はかかるだろうが、自然な好奇心に任せて、質問したくなる自分の気持ちを大切にしたいな。

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