2008年7月3日(木)

 

人生は、獲得と喪失の繰り返し

 

昨日、上田学園に来て2年ちょっとで初めてテストをやった。それは洞口先生の前期最期の授業でのことで、先生が「どれくらい覚えてくれたかな?」と言って先生が作ってきたテストをみんなでやって、先生が答えを言いながら解説をしていくというスタイルで授業が行われた。やってみると、なかなか覚えていないものである。そこで先生は、ある大学のオープン・カレッジでの授業に来ている人の話をした。「私の授業を3回受けている人がいるんですね。どうも3回聞かないと覚えられないっていうんです。」と先生はおっしゃっていた。この話を聞いていて私が頭の中で浮かんだのは、「予習・復習」という言葉である。授業も含めれば見事に3回になる。こうやって説明すれば、予習・復習の重要さが理解できるかな、と思った。それにしても、繰り返さないと見事に忘れてしまうものである。

その後は、原先生が紹介してくださった臨床心理士の先生の授業だった。ためになるお話をたくさん頂いたが、特にさる心理学の教授が言ったという「人生は獲得と喪失の繰り返し」という言葉が印象に残った。大人になっていく時に、いろいろなものを獲得したり失ったりするのはイメージがしやすいけれど、実は赤ちゃんの時から「獲得と喪失」は始まっているのだという。私は最近「失ってきたなぁ」と思うものがあったので、この言葉に実感を持つことができた。その失ったと思うものは、「記憶力」である。

実は最近まで、ひそかに自分の記憶力については自信を持っていた。自分では小中学校で“頭がいい”と言われてきた素は、たくさんのものを知っている、“記憶”しているからだろうと思っていた。(事実、日本の高校、大学受験で大事なのは、たくさんのことを覚えることである。)ところが、ひきこもって勉強に縁がなくなってから、いろいろなことを忘れ始めた。象徴的なのは漢字で、恥ずかしながら昨日も喪失の“喪”がとっさに出てこなかった。他にも試験勉強でやったことはたいてい覚えていない。(ま、そんなものだけど)

だから、数年前あたりはもう、自分の記憶力について過信していたのだろう。その時々の出来事を記憶しておくのは重要なことだ、とも思っていた。さっきの言葉に当てはめれば、記憶を“喪失”してきたのだけれども、それにはっきりとは気づくことなく、記憶について今までと同じように考えていた。

それが、最近はあまり気にならなくなってきた。これは私の年齢が、もうこれ以上成長しない時期に入ってきたことも大きいと思う。つまり、記憶力(の減退)についてはあきらめがつくようになったことと、その現状を踏まえて考えられるようになったということなのだろう。そういう気持ちでいられるようになったら、だいぶ気が楽になってきた。この「楽」が“獲得”なのだろう、きっと。

最近不思議に思うのは、授業を受けていて先生が話していることと、自分が心のどこかで考えている(であろう)ことが、頭の中でふとつながる瞬間があることだ。昨日の授業もその一例だった。これも“獲得”なんだとしたら、その代わりに何かを失っていることになる。でもまあ、それもまた良し、ですね。

 

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