行雲流水
という言葉が、最近私の中で響くようになった。
時間は誰にも同じように1日24時間である。それはとどまることはない。永遠に続くものもない。ということは楽観的にも悲観的にもとれるけれども、最近は”行雲流水”という言葉が自然に流れるなってきたので、多少は楽観できるようになってきたかと思う。
こんな風にダラダラ書いているだけでも、この言葉について考えていると、気持ちが穏やかになってくる。この世は仮の世だとか、永遠に残るものはないとかいうことも、見方を変えられれば、少しは気にならなくなってくるのだなと実感している。
とはいえ、頭でっかちな部分も相変わらずある。
その日に起こったことを考えてみたり、自分の行動を反省してみたり、記憶の彼方にある出来事を考えてみたり、夢を見たりといったことが。
煩悩だって相変わらずある。ずるくなったり、のらりくらりかわすことに嫌気を感じなくなってきたりもしている。少しずつ年をとってきて思うのは、人間や社会というのは、どこにあったって、もともと清濁併せ呑むものだということである。
そうすると、それを理解した上で、人の生きる道を考え、追い求めたという親鸞のような人はすごいな、と思う今日この頃である。