「守り。」「粘り。」今週火曜日に卓球をやっていた時に、みんなの口から出た私の卓球のスタイルへの感想である。来た球をなんでも返そうとしているという意味ではその言葉に納得はいくけれど、言われた本人には、「守り」の意識はなかったので、違和感もあった。そこで休憩時間に、卓球をやっている時の自分をイメージして考えたのは、中学の部活でやっていた野球の影響だった。
中学の野球部での主な練習は、ランニングやキャッチボール、ノックなどの基本と守備練習であった。ボールを打てたのは、一日に一回まわってくるフリーバッティングの時だけであった。練習はきつかったけれど、そういう練習は大事だとも思ったので、愚直にやっていた。
あれから10年の歳月が過ぎ、卓球という違うスポーツをやった時に、在りし日に野球で身に付けた身体の動きや意識が応用されて出てきたことは、久々にスポーツをやってみての新鮮な驚きだった。
最近よくクラシックを聞くようになった。直接の要因となったのは、クラシックをテーマにした漫画『のだめカンタービレ』である。けれど、ここにも小さい頃の影響があると思う。思い出すのは実家の些細なことである。
父は大学時代にクラシックギターをやっていたという。実家にはその名残のギターが置いてあった。高校時代に合唱部だった母は、週1回、母校のOGで作られた合唱サークルの練習に出かけていく。数年前に亡くなった祖母も三味線をやっていて、よく実家で弾いていた。後に私も大学で合唱をやることになるのだが、最近のクラシックへの興味も音楽への意識も、それら家族の姿を見て無意識に感じてきたことの影響があったのだと思う。
卓球とクラシックという二つの事柄から、まだ小さかったころのことが思い出されて、少し懐かしい気分になった。幼少の頃の影響を自分で認識できるようにあったのは嬉しいことである。けれど、子ども時代が遠くへ行ってしまった気持ちにもなり、一抹の寂しさも感じる。