ある本で、「飛行機が無事に飛ぶのは、みんなが飛行機が予定通りにそこに着くと思っているからだ」という話を読んだことがある。実際はパイロットや管制官、整備士などといった様々な人の不断の仕事によるのは明白だけれど、そういった思いの力も、まったく無いわけではないのかもしれない。
人間の思いに力があると考える時、私は言葉を発するのにも慎重になる。人間は言葉で自分の考えや思いを整理して、他人に伝えるからだ。
その上、その言葉を発した自分が、思いもよらないことを考えていたことに初めて気づくこともある。他人が発した言葉によって気づくこともまた然りである。境さんが坂口安吾を評して「病んでいる」言ったことが、言葉だけ乗せて自分に入ってきたことのようにである。もともと無口ではあったけれど、最近は言葉への意識が強すぎて余計無口になっているような気がする。
今度は最近『海馬』という本で読んだ話だけれど、人間は何かの作業を繰り返し続けていると、頭の中で記憶や整理をする海馬がどんどん大きくなるということだ。しかも整理されたことで獲得した能力はべき乗で発達する。2の10乗は1024.つまり、10回もやれば1000倍も発達するのだそうだ。
そこでふと思ったのは、言葉を通して何かを考えるときも同じようなことがあるのではないかということだった。思考の場合、スポーツや料理などのように技術が上がるというような目に見えるものがあるわけではないけれど、でも考え続けているうちに醸成されて形が出来上がっていくということは、あり得ることだ。
そうすると、私は結局安易に言葉を発するべきではないという思いに落ち着いてしまう。安易な言葉はその場しのぎのような意味で発することが多い。そんな言葉で思いを左右されたくはないのである。もっとも、そうやって何かにつけ”石橋を叩いて渡ろうとする’考え方自体が、私の人生の間にべき乗で発達してきた最たるものなのかもしれないが。