上田早苗×陰山英男
対談「小学校の現場から」
2.
上田 そうですね。何でも自由ですって世の中はないんですから、子供に対しても大人が壁にならなければいけない時があると思います。誰も壁にならなかったら、自由と表裏の義務や責任も学べない。でも周りに壁になっている大人がいれば、子供はそれをどうやって飛び越えようかと工夫する。そこが説得したりするコミュニケーションの原点になるのではないでしょうか。でも今は全部自由だって言ってしまっている。だから私も物分かりのいい大人じゃなくて、頑固者が必要だと思っているんです。
陰山 例えば若者達っていうのはいろんな変なことやり出すじゃないですか。そのとき私達大人が頑固者になって駄目だっていいます。駄目だっていうけれど、若者の中にそれでも乗り越えようとする本物の気持ちがあれば、その時その子は決意すると思うんです。今に見とれ、と。だから僕はいいと思うんですよ。例えば、野茂が海外に出るとき、足引っ張ったりする者がいた。けれど、野茂はこんちくしょうと思って出ていって、成功したわけですよね。だからそういう面でみると、今の若者も捨てたもんじゃないなあ、と思うんです。スポーツの世界では野茂のような人間が出てきている。でも一般のいわゆる知性を司る分野で、そういう若者が出てこない。あるいは20世紀文化を破壊するかのような恐怖心を与える知性が若者の中から出てこない。
上田 本当に元気のいい若者っていないですよね。みんな穏やかで。
陰山 これは時代背景も大きいと思うんです。東西冷戦が終わって対立がなくなっちゃいましたね。対立がなくなったら後は失敗しないのがいい。しかし本当はもう少し学校の中に対立する異文化、ぶつかりあう異質なものがあっていい。多様な知性が出てきていいと思うのだけれど、冒険がなくて手堅く失敗がないのがいいとされる。これは日本のシステム的な問題だと思うんですけど、そういうなかで教師というのは手堅くいかなきゃならない職業のひとつとなり、官僚的に失点をしないようになってきたと思うのです。
上田 私が教育実習に行ったとき、校長と教員が対立していて、生徒が完全に置いていかれている。それを見て、教師にはなるものかと思ったことがあります。今先生の方でこれをこう教えたい、伝えたいんだという部分がない、あるいは打ち出せないのが問題なのではないでしょうか。
陰山 教師が官僚的になってしまったから、そういうことも起きるんだと思います。
上田 勉強ははじめ強制の側面があって当たり前ですが、たとえばお箸を持つ訓練をしなければ食べられないと同じで、鉛筆が持てなければ先に進まない。つまり基礎訓練的な勉強があってはじめて自発的な学問、自分からの学びに変わっていくんじゃないかと思うんです。だけど、勉強さえやっていればいい、塾に行くなら掃除当番をやらなくてもいいと大人が許してしまった。それが受験などで極端になった時期がある。しかし、その反動として今度は、勉強を強制するのはいけない、となってしまった気がします。
陰山 ただ、小学校の現場にいるとね、勉強のできる子にしなきゃいけないというプレッシャーを僕はあまり感じたことがないんです。これはおそらく、小学校と中学、高校が別の論理で動いているからだと思うんですよ。小学校は徳育重視で、中学校に入った途端に受験しなきゃならないからまったく別の論理が働いてきます。
上田 これは東京だけなのかもしれないですけど、いま高校で生徒をあまり取らない学校があるから、中学で受験して入ろうという競争があります。
陰山 そういうことは小学校の側はむしろ奨励しないし、小学校側は受験にはアレルギー意識があるんですよ。
上田 学力低下や学級崩壊の問題など一気に問題が噴出してきましたが、そのことに対してはどうお考えですか。
陰山 学力を伸ばそうとしても、朝ご飯を食べてきてないから子供達が踏ん張れないようなことがあります。また自由にさせれば暴れたりして授業にならない。そうやって子供達の根本の部分が崩れているから、学校ではもう対応できないことが、学校で表面化しているわけです。
上田 それは家庭が良くないという意味ですか。
陰山 いや、それは家庭自体がもう社会の中に飲み込まれていますからね。単純に家庭が悪いとは言えません。例えば男女雇用機会均等法といっても、女性が働けるようにするだけじゃなくて、男性が早く家に帰れるようにするのが本当の意味での均等じゃないかなと思います。
ところがそうじゃなくて、女性が社会進出して働くことがいいことだと、部分的なものが突出して主張されているように思うのです。結局男性も女性も働く時間が長くなってしまう。男性と女性というものが水平な土壌のうえでいかに仕事ができるかという競争をさせられる訳でしょ。子供の頃に深夜1時2時まで勉強したという経験を持つ子供達がサラリーマンになるわけですから、午前1時2時まで仕事をするのは当たり前じゃないですか。結果子供を育てる社会がなくなっている、そういうことだと思うんです。だから私たちは何を考えなきゃならないかって言ったら、まず子育ての喜びを思い出さなきゃいけないんだと思います。
上田 結局みんな、学校が悪い、親が悪いと言い合って、本当のところ本質を見ていない、私はそう感じます。陰山先生は学校の役割、家庭の役割という部分ではどうお考えですか。
陰山 僕は極めてシンプルに考えています。学校は勉強、家庭は子供の心や健康を育てるところだということです。私達はお互いがそれぞれの役割を果たし、それを地域社会のなかで融合していって、社会に役立つ人間を作ろう、という極めてありきたりなことをやってきただけです。確かに受験競争の構造には問題があります。しかし、だから勉強させないという極端な姿勢ではなくて、基本の学習はしっかりやっていく。
上田 陰山先生の目指す子育て、教育とはどんなものですか。
陰山 うちの学校は「読み書き計算」というイメージが前面に出ていますが、たとえば運動会であれば、縦割り集団を作ってね、それこそ授業そっちのけでまるまる3週間運動会をやるわけです。そうすると縦割りで行うものだから、運動会が終わった後でも休み時間、6年生の子が1年生の子を肩車してやって、中庭でごく普通に遊んでいるわけです。そこには昔あった子供社会というものが見事に学校の中で再生している。このように子供達が必要としているものを、そのまま与えたい。僕はこういった「元祖学校」というものをかたくなに守っていきたいと思っています。
上田 私も子供を見ていて気になるのは、他人が困っていても何もしない、つまり他者に無関心なことです。年上だろうと年下だろうと、伝えたいことを伝えていくのは基本です。だから私は学園に年齢制限は設けないんです。
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