西暦 | 歴史的事件 | ||
1451 |
☆イタリア、ジ ュノバにてクリストファー・コロンブス誕生 詳細:コロンブスは父ドミニコ、母スサーナとの間に生を受ける。コロンブスはイタリアのジェノバで生まれたと言われているが、明らかではありません。 |
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1456 | ☆コロンブスは14歳で船乗りになり、地中海、イギリス、アイルランド、北海沿岸など | ||
1476 |
☆コロンブス、リスボンへ 詳細:コロンブスは乗船していた船が火事になりポルトガル沿岸に逃れ、首都のリスボンに至りました。その地でエンリケ航海親王に仕えた船長の娘と結婚し、義父が遺した航海資料を手にいれました。 |
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1479 | アラゴンとカスティリャが合同=スペイン王朝に | ||
1488 | ポルトガル人バトロメゥ=ディアス、アフリカ南端に到達。喜望峰と命名。 | ||
1492 |
スペインがグラナダ王国を滅ぼす。 |
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4度に渡るインド発見への航海 |
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1492 | “第一航海” サンタ・マリア号、他2隻の乗組員約90名で出発。1492年10月、現在のバハマ諸島のサンサルバドル島に到着し、西欧人による新大陸発見(アメリカ大陸)を成し遂げた。キューバのエスパニョーラ島の沿岸を航海したのち帰国。 出発前の協約によって、コロンブスは発見した島々全てを支配する副王の(総督)の地位を認められました。また持ち帰った真珠、宝石、金銀などについてはその10分の1を得ることが出来ました。 インドを発見する航海の途中で偶然にも発見したアメリカ大陸のことをコロンブス自身は死ぬまでインドだと信じていました。 | ||
1493 |
“第2航海” 17隻の乗組員約1500名のからなる大艦隊で出発しました。しかし、現地人の反乱が慢性化したため、現地人を奴隷として本国に送り返し、イザベラ女王の怒りをかうことになりました。 |
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1948 |
“第3航海” 6隻で出発しました。しかし又もや現地で反乱が発生したため、コロンブスの統治能力に疑問が持たれ、本国に送還されてしまいます。 |
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1504 |
"第4航海"1504年11月 |
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1494 | トルデシリャス条約。 | ||
1498 | バスコダ・ガマ、喜望峰経由でカルカッタ到達。(インド航路開拓) | ||
1500 | カブラル、ブラジル東海岸に到達 | ||
1506 | ☆コロンブス、病没 | ||
あとがき コロンブスは並外れて優れた航海者であったのは事実です。第1回の航海も決して無鉄砲な冒険ではなく、確実な計算に基づいた行動でした。反面、コロンブスは行政官としては落第であったと言わざるおえません。1504年、最大の理解者であったイザベラ女王が死去すると、宮廷にはコロンブスに好意を示そうとする者が居なくなります。そもそも、コロンブスの身分は"市民"でしかない。むしろ副王たるコロンブスの存在は邪魔になるばかりでした。"航海の天才"は失意と不遇のうちに54歳でこの世を去りました。 |