「西太后の生い立ち その1 "噂の多い女"」の答え

答えは@の「妹ばかりを可愛がる両親から逃れたいと思っていたため」です。

 

 

西太后本人は後にこう語っています。
「私は娘時代にたいそう苦しい暮らしを経験しました。両親がいるときにもちっとも楽しまなかった。私はお気に入りの子ではなかったから、妹達は欲しいものは何でも与えられたのに、私はほとんど無視されました。」

いつもいつも悪女として扱われる西太后は、本当は内気な女性でした。自分を不幸の星の元で生まれたのだと嘆き、両親との不和によって宮廷に隠れるように入ったのでした。そして、彼女は自分の一族から推薦されて側室の候補なったものの、彼女自身野心をもって宮廷に入って地位を目指すということはなかったようです。

舞で皇帝を誘惑したとか、皇帝がお風呂に入っているときに忍び込んだというのもフィクションです。伝統的な儒教と厳格な礼儀作法を守る宮廷内では、何か失敗がないか常に監視され、従順であることが求められていました。

日常接するのは皇太后ただひとり。清王朝の高い地位の人々(雲上人と呼ばれる)は儒教を中心に考えていて、女性を蔑視するという伝統を持っており、皇帝や雲上人たちとの接触はほとんどなく、接触があったとしても西太后は多くの妃嬪のひとりにすぎませんでした。

もちろん皇帝の子供を生めば、皇后がすでにいたとしても、同じような地位と扱いを受けられたので、側室になることは大きなチャンスではありましたが、彼女自身は両親とはなれて暮らしたいという願いから、閉じた貝のような宮中に、家族から大切にされなかった悲劇の主人公として「引きこもった」のです。

16歳の西太后の旅立ちなのでした。