「西太后の生い立ち その3 "将来の夫・感豊帝との出会い"」の答え

答えは@の「自分の性生活を自分の思うとおりにする権利がなかった」です。

 


 皇帝は大奥の全ての女性とベッドをともにできたのですが、子供を作るものとされたのは皇后と二人の貴妃だけでした。そして皇帝の性生活の記録係がいて、道教にのっとってどの側室か?何日か?何回か?などを記録し指図したというのです。「側室とは射精せずにひんぱんに行なって」精力を蓄え、そして最も妊娠しやすい時期に「皇后と月に一回行なう」のが最善の策とされたのでした。皇帝は一種の種馬だったというわけです。

 将来、西太后の夫となる感豊帝はもちろんこういった規則を守りませんでした。

 彼も色々大変だったのです。というのも、アヘン戦争以来,中国は主にイギリスの強硬な姿勢と闘わなくてはなりませんでした。その緊張感に押しつぶされそうになるたびに、彼は「乱痴気騒ぎ」を求めたと言います。街の売春宿に通い、一方で男色でもありました。

 感豊帝と西太后との出会いは、彼のお気に入りの妃「麗妃」が妊娠した時でした。次代皇帝の誕生のために100日間、皇帝は「麗妃」との接触を禁じられました。(これも歴代皇帝のルールです。)その間にムラムラとした生活を送っていた感豊帝は側室を物色し始めました。そして西太后は偶然にも当時の皇帝・感豊帝に発見され、さらに偶然にも皇帝の子供を(しかも男児)を作ることになったのです。

 なんという"出会い"なのでしょうか・・!そのおかげで彼女は一躍、次代皇帝の母親という地位を得ることになってしまったのです。しかもそのロマンスはたったの3ヶ月で終わってしまいました。麗妃が子供を生み終えた後、感豊帝は西太后には見向きもせず、再び麗妃に熱を上げてしまいました。西太后はひと時のロマンスを味わった後、失望を味わうことになりました。

 こんな皇室の性の管理のルールとアヘン戦争による生物学的幸運により西太后が誕生したのであって、政治を乗っ取ってしまう様な悪女、皇帝を誘惑し、ライバルを殺す悪女が西太后になったわけではなかったのです。