「西太后とプロパガンダ 」の答え 答えは@の「西欧列強の外交官夫人たちをお茶に招いたりして、諸国と良い関係を持とうとした」です。
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それまで清の王朝において、皇太后が大使館の夫人たちとお茶会を催すなどありえないことでした。宮廷は完全に秘密にされた場所であり、皇太后が部外者に姿を見せることはなく、必要なときでも召使である宦官や侍女を通してわずかな情報の行き来がある程度でした。 しかし、康有為と西洋のジャーナリストのプロパガンダによって、悪女にされてしまった西太后はなんとかして清の王朝を守ろうと積極的に親交を結ぼうとしました。 西太后は夫人たちにくつろいでもらう配慮から、西欧式のテーブルでお茶とビールとシャンペンを用意し、夫人達とテーブルに一緒に座ってお菓子を食べたり、洋タバコをふかしました。1902年の頤和園で行なわれたお茶会はとても盛り上がって西太后は非常に機嫌が良くなり、それぞれの夫人に宮廷の貴重な宝物を渡したりしました。 その後、夫人達は頤和園でのお茶会やピクニックなどで定期的にもてなされるようになりましたが、夫人の中には西太后の招待をサボる者もでてきました。理由はというと「ありきたりすぎるから」などと答える始末で、一度西太后がムッとしたことがありました。あるとき客の一人が大きなポケットのついた不恰好な旅行着と同じ布地の帽子姿で、さも寒そうに両手をポケットに突っ込んで現れました。驚いた西太后は侍女に「あの米袋で作った服を着ているのは誰か?」と尋ねました。それ以来西太后はむやみに招待状を出すのをやめたそうです。 西太后は欧米婦人のなかに清の国と自分を軽蔑しているものがいることに平気ではいられませんでした。「私達は凡庸で無知な清国人だと思って見下しているようだ。こういうことはすぐに気が付く。教養と文化があると称する人たちが、あんなふうに振舞うとは驚くばかり」 と、西太后は語りました。
ニューヨークタイムズはその後、事実と違った記事を流し続け、西太后とお茶を飲まない夫人が増えていきました。 |