2008年6月5日(木)

 

篭る

 

先々週書いた「ブルー」を読んで、上田先生が、「あなた、落ちてたわよね。」と感想を述べてくれた。その通りだったので、特に何と思うこともなく「そうですね。」と言って通り過ぎたが、「でもあの状態って、俺にとってはずっと”普通”だったよなー」という思いも、拭いきれないものとしてある。周りの人からすれば、決して見たいものではないと思うが、でもその精神は私の根っこにくっついているものなので、大事にしたいという思いがある。

ところで、最近とある本を読んでいたら、”成功するためになってはいけない状態”というのが書いてあった。(これだけだとモロ怪しい。)それはほとんどが、先ほど言った”落ち込んだ”状態に当てはまるものだった。(優柔不断、人の批判を受けてすぐに意志を変える、完璧主義、自己満足、冷静に判断ができないetc)「なるほどね、つまり自分から成功を拒絶していたのか」と、妙な仕方でそれを納得したのだった。

ひきこもりだった頃は、外界に出ると常に恐れに身を包んでいた。父や母と将来のことについて話している時もそうだったし、第一、呼吸の仕方からして違っていたのではないかと思う。何かあると否定的な考えが頭の中をかすめていく。何も考えなくていいから、ゲームをやってやり過ぎる。いつの間にか時計は午前3時で、それから寝て昼ごろ起きて…。世の中で求められていることの逆をやっているわけだから、ひきこもりって、ある意味で(力なき)反抗である。弱くなっているがゆえに、居場所がないがゆえに、さなぎのような部屋に閉じこもる。

今の私は、外に出ることも自然にできるようになってきたので、こうやって書いていても、ひきこもりについてだいぶ見えなくなったんだなということを実感する。でも、部屋の中で日々を過ごし、ささやかに反抗している人達は、まだまだ相当いるはずだ。それは昔の自分の姿でもある。

私が引き篭もっていた頃は、ちょうどマスメディアがひきこもりを取り上げ、いろんな本が出るようになった後だった。その頃、「何かヒントがないかな?」と思って、いくつか本を買って読んだのを覚えている。そういう本では、自分がどういう状態なのかをわかることはできたが、じゃあどうする?っていうところまでは行かなかった。そういう本よりは、哲学なり宗教なりの本を読んだほうが、動く元気は出るのかもしれない。

今、ひきこもっている人に向けて私が言えることがあるとすれば、「とりあえず、何があっても生きててやる。」と思っていて欲しいな、ということだ。生きている限り、すぐに見えなくても少しずつ変わっているはずだから。

話がひきこもりに脱線したけれど、きっとひきこもっていたこともマイナスだけのことではないし、その頃の心の状態を保っていることだって悪いことではないはずだ。個人的には、これからの人生でそれを証明していかなくてはいけないけれど。

 

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