2008年8月7日(木)

 

芥川と毒

 

以前、たまたま登校中に道路上に寝ている猫を見つけて、写真を撮ったことから、当時文学の授業でやっていた夏目漱石の『吾輩は猫である』をもじって雑記を書いたことがあった。(「黒猫のつぶやき」) その授業で最近まで芥川龍之介の作品をやっていたので、今日は彼の作品の感想を書こうと思う。

夏目漱石と比較してみると、彼の文章は共感できるところが多かったように思う。例えば、持って生れた特異な鼻がどう見られているか、どう言われるか気になって仕方がない、小説『鼻』の主人公の僧の気持ちなどは、周囲の目がとにかく気になって、みんなが私に向かって後ろ指をさしているんではないかと思っていた頃を思い出させ、とても切ない気持ちになった。

彼の物事に対する見方も興味深いものだった。ストレートな物言いの中に彼独自の毒が含まれていて、中には、「その気持ち、わからなくもない」と思えるものもあった。「人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。」という考え方などは、まるで青春時代のようである。高校生ぐらいの時に読んだら、きっと大いに共感したことだろう。

この前の火曜日は、その芥川の最終回だった。その時、先生は何を授業で扱うか選んでいる際に芥川の作品を読んでいたら、「結局、責任転嫁しているだけで、他人に対する眼がない。だから腹が立ってしょうがなかった。」とおっしゃっていた。そんなわけで感想を述べる場では、そのことが中心で進んだ。それはその通りだなと思いつつも、その日、私は芥川から感銘を受けてもいた。

その日は、有名な遺書の一節を含む、芥川晩年の文章をやった。文章を書き写している際(作家になったつもりで、作品を書き写す授業なのです。)に、彼の文章の中に含まれた毒が手にとって伝わってきた。そうしたら、「ああ、正直だな。」と素直に思えた。

たぶん、人間誰しも「毒」に相当する部分を持っている。それがストレートに出る人もあれば、うまく小出しにできる人もいれば、それと気づかれないように出せる人もいるだろう。でも少なくとも私は、あんまり相手に毒の部分ばかり出されたら、毒気を受け取って不愉快に思い、不機嫌になり、しまいには怒り出すだろう。

芥川の文章はストレートだった。人間や心や物事のある一面を、一太刀で切ってしまうような鋭さもあった。それゆえ毒も直に伝わってきた。怒りたくなるのももっともである。が、私は毒を吐いているその文章に、なんとなく清々しさも覚えた。その清々しさには懐かしい感じがあった。彼の毒に、どことなく純粋さを感じたからであろうか。

 

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