西太后の生い立ち クイズ(クイズは文章の下にあります)

西太后の生い立ち その1 "噂の多い女"

 

 

 西太后は今から170年ほど前の人物で、中国の清王朝の帝王として知られる女性です。
中国三千年の歴史の中で、女性で中国のトップになったのは呂后さん、則天武后さん、そして西太后さんの3人しかいませんでしたが、彼女はその3人の中で一番長く国を治めた女帝です。政治を治めるのが難しいといわれる中国で、50年ものあいだ君臨していられた人は、男性の皇帝でも10人もいないそうです。それだけ彼女は強く実力のある女性だったということでしょう。

しかし実力のある女性であったはずの西太后は、本名さえ伝わっていない女性でした。西太后には無名の満州官僚の父と母、そして妹3人と弟1人という家族がいたことは分かっていますが、彼女の出生地や  父母名、その職業や、彼女の幼名などの事実は伝わっていません。

はっきりしているのは、彼女が1835年の11月29日に生まれたことです。そして有力な一族の出だということです。その事実以外には、特に彼女が側室になり西太后になる前の幼年期についてはほとんど事実が残っていません。

父親は八旗軍という清王朝の兵制度の大隊長であり、母親は絶世の美人で才能と知識を持った女性であったという説。一方で、父親がアヘンの常習者で、売春宿に通いつめ、ギャンブルで破産したおかげで追い詰められた家族のもと育ったという説。

多くの伝記に多くの説があって、どうやら彼女の幼年期に関して正確な事実が残っていないことは確かなようです。そしてきちんとした事実が残っていないがために、彼女は後世の人々から根拠も無くいろんな想像をされ、「噂の多い人物」となってしまいました。

「西太后=悪女」というイメージが出来上がったのも後世へ正確な史実が伝わっていなかったことが、ひとつの原因になっていると思われます。

さてここで問題です。
西太后は「貴人」という、当時結構低い地位から宮廷入りを目指し、厳しい妃嬪教育を受けてほとんどプライバシーのないといわれる宮廷生活に耐え忍びました。ある意味では結構苦しい十代を過ごしたのです。さてどうしてそんなことをしてまで宮廷を目指したんでしょうか?


@ 妹ばかりを可愛がる両親から逃れたいと思っていたため

A 彼女に地位を得られれば経済的に豊かになるという野心があったため

*「大奥」にはランク付けがあり、貴人・嬪・妃・貴妃・皇后の順番で高くなっていく

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西太后の生い立ち その2 "西太后の宮廷生活"

 

 

 宮廷に側室として入った西太后は、自分の出身門閥(名門の部族)の名前を取ってイェホナラと呼ばれました。イェホナラは美しい女性でした。生真面目な性格のためか、滅多に笑顔を見せなかったけれど、たまに微笑むと温和な表情になり、普段からきつい女だと感じていた人々を驚かせたといいます。

 

友達とくつろいでいる時だけは機嫌がよく、麻雀台を囲んで笑い声を上げたり、皇帝専用のペキニーズ犬と戯れるのが大好きでした。

 さあ問題です。イェホナラ達・つまり妃嬪たちには宦官という去勢された男性が世話役として付いていました。後に大権力者になるイェホナラは、皇太后になる以前どんな生活をしていたでしょう?

@宦官に自分の生活や身辺のこと・雑事などを任せず自分の責任でやりたがった

A他の女性がいないところで宦官を誘惑し、一方で馬車馬の如くこき使って遊んだ

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西太后の生い立ち その3 "将来の夫・感豊帝との出会い"

 

 

 西太后は16歳で皇帝の側室(大奥と呼ばれるところで皇帝のお世話をする女性達)として選ばれましたが、しかし驚く無かれ、当時は皇帝であっても自分の好みでその側室を選び出すことができなかったのです。妃たちを選び出してくるのは皇帝の母親・皇太后の役目で、その選定基準は非常にはっきりしています。

皇帝の側室として選ばれるには・・
1. 慎み深く、感じがいいこと
2. しつけが良く、温厚であること
3. 健康であること
4. 小柄で、ぽっちゃりしており、均整がとれていること
5. 処女であること
6. 低音で話さないこと
7. 皇太后のお気に入りになること

全国から集められた側室候補者は20〜30人にまで絞られて、上記のような基準で気品・話し方・身体検査などの選定を2年間の時間をかけて行なうのです。皇帝の好みは二の次でした。

 さてここで問題、さらに皇帝には非常につらい規則ががありました。それは以下のうちどれでしょう?


@ 自分の性生活を自分の思うとおりにする権利がなかった

A 皇太后(母あるいは継母)に自分の食事生活を決められた

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