西太后と宮廷生活 クイズ(クイズは文章の下にあります)
西太后と噂の出所 "東太后の死と皇帝毒殺の噂"
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1881年4月、それまでの6年間一度も病気にかかったことのなかった東太后は、何の前触れもなく重い病気になりました。記録によると、「慈母は突如病に倒れられた。薬草が直ちにささげられたが翌日、病は急変し、呼吸はおびただしい痰に妨げられ、重体に陥られた。午後七時から九時までの間に崩御された。」 東太后は殺されたのだ、という噂が北京中に広がりました。ある歴史家は犯人は西太后で、東太后を殺害した理由は彼女が役者と寝ているところを見られたから、などと書いています。しかも殺害の手口は「毒入りのお菓子」だと決め付けたりしました。 しかし東太后が西太后に殺されたという証拠は見つかっておらず、実際にはそうした噂が広がったのは東太后が死んでから25年以上経ってからのことでした。事実としては、東太后が死んだとき、西太后も病気を患っていることが分かっており、健康になるまでに更に二年間かかったということです。 さてここで問題です。西太后の妹のように、残虐なことをした人はもっと他にもいるはずなのに、なぜ、西太后一人がこうして悪の化身のような非難を浴びせられたのでしょうか? @ 清の王朝に敵対していたヨーロッパの国のジャーナリストが西太后の悪口を広めたかったため |
西太后のお気に入りのもの
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突然ですが、問題です。カメラ以外に西太后が気に入っていた西洋のものが、もうひとつあります。さてそれは一体なんでしょう? @ 豪華な装飾の施された西洋置時計 |
西太后とプロパガンダ
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西太后は皇太后と言う地位を手に入れて以来、単なるひとりの側室だった頃は無縁であった"政治"という世界と関わらなくてはいけませんでした。 西太后は強力な権力を持っていましたが、そうそう簡単に中国を支配することはできませんでした。 そんなピンチに陥ったとき、西太后には二通りの人間が近づいてきました。まず、西太后の強力な権力と富を目当てに彼女と仲良くしようとする人たち。そしてもう一方は西太后を潰して彼女の権力と富を奪おうという人たちです。 後継ぎ問題のとき、西太后は「彼女と仲良しになりたい」というグループを上手く使って「彼女をやっつけたい」というグループを抑えることに成功し、ピンチを乗り切ることが出来ました。西太后は何度もピンチに陥りましたが、晩年になるまでなんとか切り抜けてこられました。「誰を利用して誰をやっつけるか?」彼女にはそういう政治の才能があったようです。 しかし晩年になると、それまでなかったようなピンチに立たされました。それは西太后は悪女だというプロパガンダを西欧列強の国々に流されることでした。1898年以降、タイムズやワシントンポストなどのメディアで大々的に反西太后の記事が載せられたのです。 こうした西太后の記事によって、西太后はひどい悪女だというイメージが世界中に定着してしまいました。 問題です。西太后は巻き返しに、ある行動にでました。それは一体なんでしょう? @ 西欧列強の外交官夫人たちをお茶に招いたりして、諸国と良い関係を持とうとした
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西太后の死
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1908年11月14日、彼女の甥で皇帝だった光緒帝は死にました。 西太后は甥を嫌っていたどころか、むしろ甥を愛しており、光緒帝が死んでからというもの、そのことがひどくショックで、ずっと下痢が続いて体調を崩し、皇帝が死んで2日後、西太后はあとを追うように死にました。 西太后は死に際に さてここで問題です。西太后は光緒帝が死ぬ直前に彼への愛情として、あることをします。それはなんでしょう?
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